ハイデガーとハイ・ボタン

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ハイデガーは、偉い哲学者ですよね。マルティン・ハイデガー。
1889年9月26日。バーデンのメスキルヒに生まれています。日本の元号で申しますと、明治二十二年のこと。
九鬼周造が、明治二十一年の誕生ですから、ハイデガーの一つお兄さんだった計算になります。

「ハイデガーは読むもので書くものではないと、ほとんどあきらめた時期もありました。」

日本の哲学者、木田 元は、『闇屋になりそこねた哲学者』のなかで、そんなふうに書いています。
専門家の、本物の哲学者が「わからない」とおっしゃっているのですから、私に分かるはずがありません。
でも、ハイデガーのことを書いた哲学者がいなかったわけでもありません。

「………彼が「前走的決意性と称するものは自由にほかならない。」

九鬼周造は、『時間論』のなかで、そんなふうに書いています。
この九鬼周造の『時間論』は1928年の講演を元にした原稿。九鬼周造は、1928年8月、巴里郊外、ポンティニーで、フランス語で講演。それを後に日本語に改めたのが、
『時間論』なのであります。
では、九鬼周造は、いったいどのような人物だったのか。

「………彼はずばぬけた秀才であり、貴族で富裕で、その上に稀に見る美貌の持ち主で、わたしなどとは別世界の人間のごとく感ぜられたからである。」

天野貞祐の随筆『天野は九鬼にラヴしている』の中に、そのように書いています。
天野貞祐は昭和二十五年、吉田 茂のもとで文部大臣を務めた人物で、京都大学でも有名な秀才であったお方。
その天野貞祐と、九鬼周造は親友で、なにかと九鬼周造をかばったらしい。
九鬼周造はお母さんの影響なのかどうか、京都の祇園がお好きで。祇園から大学に通ったりも。そうすると、安倍能成などが非難する。それを天野貞祐が、「まあ、まあ」と宥めたという話なのです。その時の安倍能成のひと言が。

「天野は九鬼にラヴしている」

であったという。

大正十三年。九鬼周造と天野貞祐がスイス、チューヒッヒ湖を背に記念写真を撮っています。写真機を扱ったのは、九鬼夫人。
九鬼周造は立ち、天野貞祐は腰を下ろして。この写真での九鬼周造のスーツが、美事。
スリーボタンの、ハイ・ボタンで。
今は世界的に。ロウ・ボタン全盛のようであります。が、私は、ハイ・ボタンが好き。
天野貞祐ふうに申しますと。「私はハイ・ボタンにラヴしている」のでしょうか。
どなたか完全なるハイ・ボタンのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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