ベイカーとベレ

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ベイカーは、人の名前にもありますよね。Baker と書いて「ベイカー」と訓みます。たとえば、ジョセフィン・ベイカーだとか。
ジョセフィン・ベイカー。または、ジョセフィン・ベーカーとも。固有名詞の訓み方は難しいですね。ジョセフィン・ベイカーが主に活躍したのは、1920年代の巴里。
巴里の人に言わせますと、「ジョセフィーヌ・ベーケル」。「ベーケルとは私のこと?」とジョセフィン・ベイカーが言ったのか、言わなかったのか。
ジョセフィン・ベイカーは、1906年6月3日に、セント・ルイスに生まれています。お母さんの名前は、「キャリー」。お父さんの名前は伝えられていません。
ジョセフィン・ベイカーが巴里に出たのは、1925年9月のことだったそうですね。1925年10月2日から、「シャンゼリゼ劇場」に出演。「ダンス・ソヴァージュ(野生の踊り)」で、拍手喝采。
1926年には、「フォリー・ベルジェール」に出演。この時の衣裳が、バナナ・スカート。腰のまわりにバナナの房が下がっていたので。
今でもフランス語で「バナナ」というと、腰から下げておくポシェットの意味になるんだそうですね。
あるいはまた、「ベイカー・フィックス」。みんなジョセフィン・ベイカーのような髪型をしたいというので、整髪料が売出されて、「ベイカー・フィックス」。
当時のジョセフィン・ベイカーの人気が偲ばれるでしょう。
1927年5月21日。リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」が、巴里に着陸。
ちょうど楽屋のラジオでこのニュースを聞いていたジョセフィン・ベイカーは、そのままの姿で舞台に飛び出して、報告。観客をさらに興奮させたという。
ジョセフィン・ベイカーと、日本との関係。それは1954年2月のことです。ジョセフィン・ベイカーは、日本の大磯の「エリザベス・サンダース・ホーム」の、混血孤児のふたりを、自分の養子に迎えているのです。
1953年、澤田美喜が巴里を旅した時に、ジョセフィン・ベイカーと会見。その時、ジョセフィン・ベイカーが強く養子を望んだので、実現となったものです。

ジョセフィン・ベイカーが出てくる小説に『巴里祭』があります。昭和十三年に、岡本かの子が発表した短篇。

「ミスタンゲット、ー ダミヤ、ー ジョセフィン・ベーカー、ー ラッケル・メレール。」

1920年代の巴里で人気のあったスタアたちの名前を挙げている場面。
また、『巴里祭』には、こんな描写も出てきます。

「今でもベレを冠った鬚の削りあとの青い男を見ると何だかこわいような、懐かしいような気がするのよ。」

これは「ベッシェール夫人」の言葉として。このベッシェール夫人は、当時、巴里で岡本かの子の隣に住んでいた、婦人服デザイナーだと紹介されています。
岡本かの子は『巴里祭』の中で「ベレ」と書いているのですが。
どなたか1920年代の巴里ふうのベレを再現して頂けませんでしょうか。

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