ここでのトンカラ機は、手機のことです。手で布を織る機械なので、手機。もちろん、「てばた」と訓みます。当然、トンカラ機も「とんからばた」と訓むのですが。
ただし一般の国語辞典には「トンカラ機」は出ていません。
とにかくもともと素朴で、もっとも古風な手機のことを、「トンカラ機」の名前で呼んだものでしょう。
「智恵子さんが「トンカラ機を織る」のは二階でだった。」
詩人、草野心平の随筆『悲しみは光と化す』に、そのように出ています。私が「トンカラ機」を識ったのも、この草野心平の随筆によってなのです。
私は口をむすんで粘土をいぢる。
智恵子はトンカラ機を織る。
高村光太郎の詩集『智恵子抄』にも、やはり「トンカラ機」が出てきます。たぶん高村光太郎やその妻、智恵子が、「トンカラ機」と呼び慣れていたのでしょう。機を動かすと、トンカラ、トンカラと音が鳴ったからなのでしょうね。
智恵子はなにも機織にたけていただけでなく、「切抜絵」にも優れていたとのことです。もっとも智恵子の切抜絵は、今も作品として遺っています。この画集を観るだけで、智恵子の並々ならぬ才能が窺えるに違いありません。
「私は早速丸の内のはい原へ行って子供が折紙につかういろ紙を幾種か買って送った。」
高村光太郎は『智恵子の切抜絵』の中に、そのように書いています。
ある時、高村光太郎が、南品川のゼームス坂の病院に智恵子を見舞いに。すると、智恵子は光太郎に言った。
「色紙がほしいの。」
それで、光太郎が智恵子に色紙を届けて。そこから智恵子の「切抜絵」がはじまったんだそうですね。
高村光太郎の弟子筋であったのが、草野心平。もちろん詩人としての高村光太郎を師として仰いでいたのでしょう。高村光太郎は詩人であり、彫刻家であり、画家でもありましたから。
草野心平もまた奇人ともいうべきお方で、昭和六年に、焼鳥屋を開いています。当時の麻布十番の屋台。「いわき」が店名だったそうですが。
この「いわき」は後に新宿に移っています。今もある「紀伊國屋書店」の裏手あたり。
ある夜、突然に「いわき」にやって来たのが、高村光太郎と智恵子。
「或る晩、よしず張りののれんの間から鳥打帽がぬうっと出て高村さんが現われた。」
草野心平は『悲しみは光と化す』に、そのように書いています。智恵子は心平に、「タレを見せて」と言ったらしい。それくらい「いわき」の焼鳥のタレは有名になっていたのでしょう
ところで高村光太郎はこの時、なぜ鳥打帽だったのか。当時の鳥打帽の印象はどこか宿屋の番頭風だったのではないでしょうか。高村光太郎にしてみれば、ちょっとした変装の気分があったのではないか。
今の時代でも、ふだんソフト帽の人が、鳥打帽をかぶるのは、軽い扮装の意味があるのでしょうね。