俵屋と大礼服

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

俵屋は、人の名前にもありますよね。たとえば、俵屋宗達だとか。江戸のはじめに活躍した京都の絵師であります。
俵屋宗達で、誰もが想い浮かべるものに、『風神雷神』があります。京都の「建仁寺」所蔵の国宝。二曲一双の屏風。
宗達の『風神雷神』は国宝なんですが、署名がありません。でも、専門家は口を揃えて、「宗達以外の何者でもない」と断言しています。
大胆不敵な構図はもとより、ユウモアに満ちた筆致。宗達以外には描けないものですから。
後の時代に、尾形光琳は『風神雷神』を摸写しています。酒井抱一もまた。この光琳と抱一とを勘定に入れますと、ぜんぶで三点の『風神雷神』があるということもできるのですが。
さて、俵屋宗達。いつ生まれたのか、いつお亡くなりになったのか。ほとんど分かっていません。謎の絵師。実在したことはほんとうですが、その経歴はミステリそのものです。
ただ、ひとつ分かっていることは、本阿弥光悦と縁戚関係にあったこと。光悦の奥方と、宗達の奥方は、姉妹であったらしいので。

「俵屋」は、もうひとつあります。京都の名旅館。明治三十五年に、「俵屋」に泊まったお方に、森 鷗外がいます。森 鷗外の『小倉日記』に出ていますので。
森 鷗外の『小倉日記』は、明治三十二年六月十六日からはじまっています。明治三十五年三月二十八日まで。この間、森
鷗外は九州の小倉に陸軍軍医として赴任していたので。

鷗外は明治三十五年の一月、東京に。そして一月五日に、新橋を発っています。午後の6時5分に。6日の朝、京都に着いて、すぐに「俵屋」に入っているのです。そして小倉の家に着いたのが、8日の朝だったと、『小倉日記』には、書いています。
『小倉日記』を読んでおりますと、当時の皇太子殿下の成婚式の話が出ています。後の大正天皇のことです。明治三十三年五月。森 鷗外もまた、招待されています。
その時の服装について。
「文官、有爵者、有位者は大礼服。」
そのように出ています。大礼服は当時の第一礼装。大礼服のなによりの特徴は、全面の金糸銀糸の壮麗な刺繍にあるのですね。
その昔の宮廷服だったので、「コート・ドレス」court dress と呼ばれます。
どなたか現代版の大礼服を仕立てて頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone