ブリタニカは、百科事典の名前ですよね。もちろん『ブリタニカ百科事典』のことであります。何か分からないことがあると、『ブリタニカ・エンサイクロペディア』を開くことがあるでしょう。
百科事典はたしかに頭の体操になります。また、体の体操にも。一冊が重いですから。第一、百科事典を置いてある所まで足を運ぶ必要があります。まず、最後の巻を開いて、探す言葉を検索。そこからめざす言葉にたどり着くわけですね。これを何回か繰り返すと、日頃の運動不足が解消されるでありましょう。
かのシャーロック・ホームズも時によって、『ブリタニカ百科事典』で調べることがあったらしい。まあ、ホームズの時代にも英語圏での百科事典としては、もっとも詳しい事典でしたから。そして、もうひとつには、『ブリタニカ百科事典』が、スコットランド製でもありましたからね。
そもそもの『ブリタニカ百科事典』は、スコットランドのエディンバラにはじまっているのです。1768年のことであります。
最初は分冊式で、一冊、六ペンスだったという。これが後にまとめられて、三巻本の百科事典となったものです。
エディンバラの銅版画家、アンドリュウ・ベルと、印刷業者の、コリン・マクファーソンとの協力によって。
このスコットランドでの『ブリタニカ百科事典』は、好評となって、その後、紆余曲折の人生を迎えることになるのですが。
今もなお評価が高いのが、第十一版の『ブリタニカ百科事典』。これは1911年に出ています。全二十九巻。これは英国の「ケンブリッジ大学」によって編集、構成されたもの。もっとも説明が詳しい百科事典だと、考えられています。紙には、はじめてインデアン・ペイパーが用いられていたそうですが。
日本には、明治三十二年に、「丸善」が輸入。『大英百科全書』の名前で。
伊藤博文や後藤新平、新渡戸稲造もさっそく、購入したとのことです。
「百科字典でもあるまいに、大は日本の前途より小は変息の処分方に至るまで、宇宙間にあらうる質問を持ちかけられたこと」
徳冨蘆花が、明治三十四年に発表した『思出の記』に、そのような一節が出てきます。ここでの「百科字典」は、『英国百科全書』のことではなかったでしょうか。それというのも、徳冨蘆花もまた「丸善」でそれを買い入れていますから。
『ブリタニカ百科事典』が出てくる紀行文に、『続・チアリング・クロス84番地』があります。アメリカの作家、へレーン・ハンフが、1973年に発表した物語。
へレーン・ハンフは1970年に『チアリング・クロス街八十四番地』を出して、好評。これは書簡体の物語。
当時、ロンドンにあった古書店「マークス」の、フランク・ドユルと、へレーンとの手紙でのやり取り。
この『チアリング・クロス街八十四番地』が英国で出版されるのを機に、ロンドンにはじめて旅した時の記録なのですね。
へレーン・ハンフ、五十五歳の時のことであります。アメリカ語とイギリス語とが、うまく噛み合わない経験をもしているようですが。
「バリーはブリタニカ百科事典と万年筆の訪問販売をしていた。」
これはミニキャブを運転してくれたバリーという青年の以前の話として。また、『チアリング・クロス街八十四番地』には、こんな一節も。
「ハンフじょし、サックス店仕入れのおしゃれな紺のパンツ・スーツに、フーラール地のフレンチ・スタイルのスカーフ姿で、ついにロンドンに足を踏み入れる。」
これは当時の『イヴニング・スタンダード』のインタヴュウ記事の見出しなのですが。
ご本人によれば、アスコットふうに結ぶはずが、フレンチふうになってしまったんだとか。
ここでの「フーラール」は、「フラード」foulard のことかと思われます。
薄綾織の絹地。スカーフはもとより、ネクタイ地にもよく用いられるものです。
もし、「フラール」と訓むと、フランスふうになります。英語なら、「フラード」です。
どなたかフラードのネクタイを作って頂けませんでしょうか。