ルチレは、ふだんあまり耳にしない言葉ですよね。
ルチレ。これは野球でいうところの「アウト」の意味なんだとか。
英語でのアウトをフランス語で言うと、「ルチレ」にんるんだそうです。
野球用語をわざわざフランス語でいう必要があるのかどうか。
それがあるんですね。カナダのフランス語圈で野球をする時に。
余談ではありますが。カナダのフランス語圈で、ストライクのことは、「プリーズ」になるんだとか。
このことを私は、渡辺一夫の随筆『通訳懺悔』で教えて頂いたのですが。
渡辺一夫は1963年に、『通訳懺悔』を発表しています。まず第一に、渡辺一夫の随筆は学ぶことがたくさんあります。第二に、気持よく読める文章になっています。私は渡辺一夫の随筆が大好きです。
渡辺一夫がフランス文学の大家であることは言うまでないでしょう。
そんな大先生の印象は、お書きになる随筆からは少しも感じられません。あくまでも謙虚な姿勢でお書きになっているのですね。
なんだか近くにいる何でも識っている伯父さんの話しを聴いている感じさえあります。
「昔のジャーマン・ベーカリーに該当する店 ー でも発見し、週に一度ぐらいは、「丸善」通いをしてみたいものである。」
渡辺一夫は1956年に書いた随筆『「丸善」と僕』に、そのような文章が出てきます。
渡辺一夫が学生の頃と言いますから、大正末期のことでもありましょうか。
その頃の銀座に、「ジャーマン・ベーカリー」という喫茶店があって。若い頃の渡辺一夫はよく顔を出したんだそうです。
その「ジャーマン・ベーカリー」の後先に、「丸善」に足を運んだものだ、と。
「そこで、当時あまりなかった生クリーム入りのコーヒーかココアと、大きなカナペ風のスペシャル・サンドウイッチとを注文し、三十分か一時間くらい、人生を論じ、哲学を論じるのである。」
渡辺一夫は同じ随筆の中に、そのように書いてあります。
ここに「そこで」とあるのが、「ジャーマン・ベーカリー」であるのは、言うまでもありません。
「「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」の壮大、豊麗な樹幹が美しく充実した日本語としてわれわれの前にある。」
大江健三郎は、『渡辺一夫先生を悼む』と題する随筆の中に、そのように書いてあります。1975年に。
大江健三郎が東大の仏文で、渡辺一夫の生徒だったには、よく識られているところでしょう。
フランス中世の文人、フランソワ・ラブレーの日本語訳を完成させたのも、渡辺一夫。
フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル物語』は、一時、翻訳不可能の希書と言われたものです。その不可能を可能にしたのが、渡辺一夫だったのです。これだけを考えても、渡辺一夫は偉大なる学者でありました。
そして、もうひとつ。大江健三郎を優れた作家にしたのも、渡辺一夫だったのです。この二つは渡辺一夫にとっての勲章とも言えるでしょう。
渡辺一夫の先生だったお方に、辰野 隆がいます。
「辰野先生は学問のみならず、あらゆる方面で、多芸多才の方でした。」
渡辺一夫は『辰野 隆先生のこと』と題する随筆の中に、そのように書いてあります。
辰野 隆があってこそ、渡辺一夫があった。そうも言えるのかも知れませんが。
渡辺一夫は1901年9月25日に、東京の真砂町に生まれています。小学校は、「暁星」。渡辺一夫は幼い頃からフランス語を学んでいたわけですね。
その当時を思いおこして。
「小学の四年の時受持っていただいた先生があります。それは始終フロック・コートを着て………夏はどうだったか忘れましたが、頭髪を真なかから分けて、眼鏡をかけた方でした。」
暁星の、近藤先生について、そのように回想しています。『先生たちのこと』という随筆の中に。
明治末期の学校の先生はフロック・コートを着ていたのでしょう。
フロック・コートは、フランス語では、「ルダンゴット」redingot
。これは英語のライディング・コートをなんとかフランス語にしたところからはじまっています。
どなたか現代版のフロック・コートを仕立てて頂けませんでしょうか。