プラハは、チェコの首都ですよね。英語では、「プラーグ」と言うんだそうですが。
現地では、Praha と書いて「プラハ」と訓むのですが。
プラハに生まれた詩人、リルケがいます。ルネ・リルケは1875年12月4日に、プラハで生まれています。そのリルケに『二つのプラハ物語』の小説があるのも、当然のことでしょう。
『二つのプラハ物語』は1899年に、リルケが書いた物語なのです。
「ステッキの金の握りが、三角帽子のつばから垂れさがった金のふさにとどきそうだった。」
これはリルケの少年時代のお父さんの想い出として。ここでの「三角帽子」は、フランスふうにいえば、「トリコルヌ」。十八世紀の紳士帽だったものです。また、リルケは父の外套についても。
「父はモールのついた茄子紺色の毛皮のオーバーを着ていた。」
そんなふうに書いてあります。
リルケの『二つのプラハ物語』には、当時のカフェでの様子も記されているのですが。
「国民茶房」と訳されているのですが。これはその頃、チェコ国立劇場の前にあった「国民茶房」のこと。名優のノリンスキーがここで紅茶を飲んでいる様子が紹介されています。コニャックをたっぷり注いだティーを。
プラハに生まれ、プラハに生き、プラハで世を去った作家に、ヤロスラフ・ハシェクがいます。ヤロスラフ・ハシェクは、1883年4月30日に、プラハのシルコスカー通りに於いて誕生。
そうなんですね、偶然というべきか、カフカと同じ時期に、同じ場所で。
フランツ・カフカもまた、1883年4月30日。やはりプラハの中心地に生まれているのですから。
しかも、カフカとハシェクは、ほぼ同じ時期に人生を終えてもいるのです。
カフカは、1924年6月3日に消えています。
一方のハシェクは1923年1月9日。三十九年の生涯を閉じています。
カフカと、ハシェク。同時代のプラハの作家。そうも言えるでしょう。実際、カフカとハシェクは、プラハのカフェで顔を合わせたこともあるらしい。
「じゃ、これから酒場の『ウ・カリハ』に出かける。」
ハシェクの代表作『兵士シュヴェイクの冒険』に、そのような一節が出てきます。
この『ウ・カリハ』は、実在のビア・ホール。現在では、ビア・レストランになっているのですが。「カリハ」は、「盃」のこと。つまり「一杯の盃」が、店の名前になっているのですね。
ハシェクは小説の中に「ウ・カリハ」を登場させただけでなく、ご本人も贔屓の店だったという。
今の「ウ・カリハ」は有名店で、いつも長い行列ができています。これもまた、ハシェクのおかげなのでしょう。
昭和五十年頃、「ウ・カリハ」を訪れた評論家に、尾崎秀樹がいます。
「満員でしばらく待った後、テーブルに着いたが、客席の間を縫うようにしてビールの大ジョッキを運ぶウエイターの中に、ひときわ目立つ存在があった。ヨゼフ・ラダのさしえそのままに、パリヴェッツおやじで、つまりは虚構が生きている感じなのである。」
尾崎秀樹は随筆『ハシェクと私』の中に、そのように書いてあります。
ここでの「ヨゼフ・ラダ」は、ハシェクの親友だった画家。『兵士シュヴェイクの冒険』の挿絵を担当した絵師だったのです。
今、「ウ・カリハ」に行きますと。たとえば、「ミュラー夫人の皿」というメニュウがあります。牛肉の煮込み。このミュラー夫人もまた、『兵士シュヴェイクの冒険』の登場人物なのです。
尾崎秀樹が「虚構が生きている」とは、そのような意味でもあるのですね。
プラハが出てくる小説に、『異端教祖株式会社』があります。1910年に、アポリネールが発表した物語。
「しかし、プラーグの町とその目ぼしい場所について相当通じているつもりですから、よろしかったらお供させていただきましょう。」
これは物語の主人公が偶然、プラハの町で出会った老人についての科白。その老人は、どんな恰好なのか。
「海豹の毛皮が襟についている栗色の長いマントをひっかぶり、かなり細目にした黒ラシャのズボンをはいているので、」
その老人は言葉からしてフランス人らしいのですが。毛皮の襟つきのマント。いいですね。
どなたかファー・カラアのマントを仕立てて頂けませんでしょうか。