かもめは、鳥の名前ですよね。
海の近くに行くと、よく見かけます。白い鳥。
漢字で書くと、鷗。略字なら、鴎でしょう。
かもめもまた、おしゃれ語と無関係ではありません。
江戸の頃、「かもめ仕立」というのがあったらしい。裃の仕立方に。
「近世、裃を図のごとく製し、号してかもめ仕立といふ。流行なり。」
喜多川守貞の『近世風俗志』に、そのように出ています。かもめの翼に似ているので、「かもめ仕立」と呼ばれたものでしょう。
『かもめ』と題された詩があります。寺山修司が1969年に発表した詩。この中に。
片隅のポータブル蓄音機は、かすれたダミアの声で、古いシャンソンを歌っている。「海で死んだひとはみんなかもめになってしまうのです。」
寺山修司は北の海を眺めて育った人物。この「かもめ」もそのひとつだったのでしょうか。
『かもめ』は戯曲にもあります。チエホフの有名な芝居。1896年に初演されているのですが。
『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』と並んで、チエホフの四大戯曲なんだそうですね。
日本では大正十一年の七月に、「研究座」で上演されています。
この時、「有楽座」で、「ニイナ」の役を演じたのが、水谷八重子。
水谷八重子は明治三十八年八月一日に、神楽坂に生まれています。水谷八重子には、「勢舞」というお姉さんがいて。明治四十年に、水谷竹紫と結婚。この水谷竹紫が大の芝居好きで、その影響から舞台に立つようになったんだとか。
大正二年、九月に「芸術座」が旗上げ公演として、メーテルリンクの『内部』を上演。この時、子役として出たのが、水谷八重子の初舞台だったという。水谷八重子、八歳の時に。
『内部』は、舞台の正面に窓を飾り付け、外の群衆の動きや表情で、部屋の中の出来事を見せるという洒落た芝居でしたが、私はその群衆の子役をやったのでした。
水谷八重子は自伝の『水谷八重子』の中に、そのように書いています。
大正十五年頃の水谷八重子は、人気女優で。とにかくブロマイドが売り切れになったほど。
東京だけでなく大阪の「角座」にも出演。その時、水谷八重子がほんの冗談で、「これでは飛行機にでも乗らなくては、」
これを耳にしたのが、当時の朝日新聞の記者。「それでは社機を用意しましょう」ということになって。
水谷八重子は立川から大阪まで飛行機で飛ぶことに。その時代の毛皮の飛行を着て。
ところが強風のために豊橋に、緊急着陸。大阪で待っている関係者は心配で心配で。
やっと水谷八重子が大阪の飛行場に着いた時、白井松次郎は、水谷八重子を抱きしめて、泣いて喜んだとか。当時の「松竹」社長だったお方が。
たぶん女優で飛行機に乗ったのは、水谷八重子が最初だったのではないでしょうか。
水谷八重子は大阪ばかりではなく、九州公演にも。ある日、九州公演の楽屋に、ひとりも婦人がやって来て。「あなたの顔写真を宣伝に使わせて頂きたい。」
それは当時の「ウテナ化粧台」の社長夫人だったのですが。水谷八重子は社長夫人の振る舞いが気に入って、無料で快諾。それからの「ウテナ化粧品」はよく売れるようになったそうですね。
かもめが出てくる小説に、『九十三年』があります。フランスの作家、ヴィクトル・ユゴーが、1874年2月19日に、発表。
「大カモメや小さなカモメはねぐらへ戻っていく。大海は彼らの外出場所なのだ。」
その頃ユゴーが住んでいたのは、ガンジー島で、たぶんガンジー島での眺めなのでしょう。
ユゴーの『九十三年』には、こんな描写も出てきます。
「上着の表側はなめして絹の飾り紐がついていたが、裏側は粗毛になっている。」
これは雌山羊の毛皮の説明。ブルターニュ地方の男が着ている服装として。
ここでの「絹の飾り紐」は、ガロンgalon のことではないでしょうか。
ガロンは、飾り紐のこと。
どなたかガロンのある上着を仕立てて頂けませんでしょうか。