アデンは、イエーメンの首都ですよね。
Aden
と書いて「アデン」と訓みます。アデンは、港町人口は約40万人だとか。その昔、イギリス領であった時代も。そのためにどこかイギリスを感じさせる町でもあります。
アデンの語源は、エデン。そんな説もあるらしい。今も昔も貿易の盛んな場所であるのは、間違いありません。
1880年にアデンに渡ったフランス人に、ランボオがいます。もちろん詩人のアルチュール・ランボオのことなのですが。ランボオの詩『酔いどれ船』は有名でしょう。その詩才は、ベルレエヌが嫉妬したほど。
ランボオもまた放浪癖のあったお方で、二十代からヨオロッパを巡り巡って、アデンに着いています。ランボオ、二十五歳の時。1880年に。
アデンに着いたランボオは、「バルディ商社」の社員になっています。「バルディ商社」は珈琲豆の輸入会社で。そのためランボオは、各地を珈琲豆を求めて、訪ね歩いてもいます。
ランボオはざっと十一年間、アデンに住んでいます。一時、病を得て、故郷のシャルヴィルに戻ってはいますが。でも、再びアデンに戻るつもりだったようですが。その間も、アデンでの生活を恋しがったという。
ランボオに影響されたわけでもないのでしょうが。ポール・ニザンもまた、アデンをめざしています。
ポール・ニザンは、フランスの作家。1905年2月17日に、フランスのトゥールに生まれています。ポール=イヴ・ニザンとして。
1917年に十二歳で、巴里のリセ「アンリ四世校」に入学。ここで知り会ったのが、ジャン・ポール・サルトル。ジャン・ポール・サルトルとにざは親友に。
ポール・ニザンがアデンに旅立ったのは、1926年の9月。ポール・ニザンはアデンで、家庭教師をしていたそうですが。1927年5月に帰国して、結婚。この時の結婚式に、サルトルは立合人になっています。
「僕二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。」
1931年にポール・ニザンが発表した『アデン、アラビア』の第一行に、そのように書かれています。
ポール・ニザンは1940年5月23日、死去。戦死。三十五歳でした。
1953年に遠藤周作が書いた小説に、『アデンまで』があります。
「あした、俺がヨーロッパを去るという日、女はマルセイユまで送ってきた。」
『アデンまで』は、もちろん創作。でも、実際にもそれに近いことがあったようですね。
「夕食は港前でブイヤベスと白葡萄酒をたべた。お前は一寸酔った。」
1953年1月11日、日曜日の『日記』に、遠藤周作はそのように書いています。
ここでの「お前」は、フランス留学中に親しくなった、フランソワーズなのですが。「港前」が、マルセイユであるのは、言うまでもないでしょう。
遠藤周作の『日記』を読んでおりますと。
「私はサン・ラザールの珈琲店で煙草をふかしながら、青や赤の花のようなレインコートを着た巴里ジャンヌをぼんやり眺めていた。」
これは1950年8月17日、木曜日の『日記』。
レインコート。フランスなら「アンペルメアブル」でしょうか。
どなたか花のようなアンペルメアブルを作って頂けませんでしょうか。