ビスケットにはお母さんの匂いがありますね。新しくもあり、懐かしくもあり。ビスケットにも、星の数ほどの種類があります。たとえば、英字ビスケットとか。
英字ビスケットは、子どもがアルファベットを覚えるのに、最上の教材でもありましょう。
英字ビスケットを毎朝の食事にしていたのが、内田百閒。内田百閒は朝、英字ビスケットを食べて、牛乳を飲んだそうですね。
ビスケットは、ポルトガル語の「ビスコウト」 biscito から来ているんだとか。ビスケットの歴史は昔の船旅と大いに関係があります。ビスケットはパンに較べて保存が効く。それで、船旅での貴重な保存食だったそうです。ビスケットが出てくる短篇に、『イワン・マトヴェーイチ』があります。チェーホフが1886年に発表した物語。
「彼はビスケットを一つつまみ、さらに二つ、三つと平らげると…………」。
「彼」が、物語の主人公、イワンなんですね。誰でも最初はビスケットひとつ、と思う。でも、ひとつで終わったためしがありません。ふたつ、みっつ………。ビスケットの不思議な魔法であります。
チェーホフが同じく1886年に発表した物語に、『春』があります。この中に。
「純白のスルメをつけ、ニルーブルもするタバコを吸い、いつも満腹で、きちんとした服装をし…………」。
これは、マカール・デニースイチという男の様子。ここでの「スルメ」は、「イカ胸」のことです。正装用の、シャツの胸のこと。上着から覗く部分は二重にして、硬く硬く、糊づけする。「スティフ・ブザム」。「ここのところは下着ではありませんよ」という意味なんですね。
十九世紀には、ふだんでも紳士はイカ胸のシャツを着ていたのでしょう。