観客は、客席で、バレエなどを鑑賞する側の人間ですよね。観客席というではありませんか。
英語で申しますと、「オウディエンス」でしょうね。見物客とも。バレエと限らず、映画や演劇、奇術なんかの場合にも、やはり「観客」なのでしょう。
ところが。明治の時代には観客と書いて、「かんかく」と訓んだそうですね。大正時代以降、だんだんと、「かんきゃく」の訓みが優勢なってという。たとえば。
「現場は座長も、助手の支那人も、口上云ひも、尚三百人餘りの觀客も見てゐた。」
大正二年に、志賀直哉が発表した『范の犯罪』に、そのような一節が出てきます。
大正二年の「観客」。これはおそらく志賀直哉のつもりでは、「かんかく」だったのではないでしょうか。
日本語もまた時代によって、千変万化するのでしょうね。
『范の犯罪』での、「范」は、中國人奇術師という設定になっています。衆人環視の中、ある犯罪が起きるという、筋立てになっています。志賀直哉としてはミステリ風味かも知れませんが。
観客なのか、観戦なのか。観戦には、「スペクテイター」の表現もあります。これが複数形になりますと、「スペクテイターズ」となりますと、コンビの靴。1920年代に、スポーツ観戦にふさわしい靴だと考えられたからです。
昭和五十三年に、石原慎太郎が発表した小説に、『嫌悪の狙撃者』があります。この中に。
「観客」の章立てが三度出てきます。ぜんぶで十三章あるのですが。そのうちの三章が、「観客」。これもちょっと珍しい例かも知れませんね。
昭和四十年に、渋谷である事件が。その実際の事件にヒントを得ているために、石原慎太郎自身は、「観客」である、と強調したかったのでしょうか。
『嫌悪の狙撃者』の中に。
「岡崎は、仕事用のシャツを脱ぐとロッカーから開襟シャツを出して着換え出した。」
石原慎太郎は少なくとも『嫌悪の狙撃者』の中では一貫して「シャツ」と、正しく書いています。そうです、シャツはシャツなのですから。
「………洗ひ立ての白麻の服に、氣の利いた開襟シャツを、夏期の紳士の型どほり……………………。」
これは「澤口平一」という人物の着こなし。
開襟を英語で言いますと。「オープン・カラア」でしょうか。「ワンピース・カラア」でしょうか。
開襟は、ネクタイを結ばないという、ひとつの決意なのです。ネクタイはしないけれど、だらしなくなりたくもない、という精神。
その意味では、なんとなくノオ・タイよりはるかにマシでありましょう。
どなたか紳士の誇りを保てる開襟を仕立てて頂けませんでしょうか。