久留米絣は、木綿の生地ですよね。昔は子どもの着物、あるいは浴衣などによく使われたものです。私がはじめて着せられた着物も、久留米絣だったのではないか。そんなふうに思えてくるほどに、一般的だったようです。
「つい一寸した久留米絣でもいいから、一枚お拵へになるといいけれど……………………。」
大正二年に、鈴木三重吉が書いた『桑の實』にも、そのように出てきます。
久留米絣を発明したのは、井上 伝だと言われています。
井上 伝は、天明八年十二月二十九日、九州の久留米に生まれています。お父さんは、平山源蔵。
久留米の通外町の「橋口屋」の主人。「橋口屋」は米屋だったという。
平山 伝がどうして「井上 伝」なのか。
これは伝が、二十一の時、井上次八に嫁いだからであります。
伝が久留米絣をはじめたのは、十三の時ですから、実際には「平山 伝」の時代だったわけですね。
平山 伝は七つで、機織りをはじめたという。
伝はある時、斑糸のあることに気づく。斑糸とは、ごく一部、糸が染まっていないので、白くあらわれる。これは面白いというので、あえて染まってはいない糸で、柄を織った。これが人びとの話題になって、「加寿利」と命名したと、伝えられています。
「…………薩摩絣か、久留米がすりか又伊豫絣か分らないが……………………。」
明治三十八年に、夏目漱石が書いた『吾輩は猫である』にも、「久留米がすり」が出てきます。これは書生にふさわしい服装を述べている場面。
久留米絣が出てくる小説に、『おしやれ童子』があります。昭和十四年に、太宰 治が書いた物語。
「久留米絣に、白つぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黑い靴。それからマント。」
子供の頃の「私」を想い返している場面なのですが。
同じく昭和十四年に、太宰 治は、『八十八夜』を発表しています。この中に。
「登山服を着た青年が二人、同じ身拵えの少女が三人。」
そんな描写が出てきます。
これはどうも、上諏訪が背景になっているらしい。当時、太宰の夫人だった、津島美知子著『回想の太宰治』に、そのように述べられているので。
駅前でタクシーに乗った太宰は、「よい宿へ」と言ったので。「布半」へ。太宰は「布半」で藝者を呼んで、大いに飲んだそうです。その時の、上諏訪の印象から、『八十八夜』の短篇が生まれたのだそうです。
登山服は、クライミング・ウエアでしょうか。
「十日、出立、二人とも洋服、半ズボン、きゃはん、洋傘、麦藁帽など、尋常一様の旅装のみ……………………。」
小島烏水著『日本アルプス』にはそのように書いてあります。
これは明治三十年代の登山服の説明として貴重なものでしょう。少なくとも着物ではなかったことが窺えるではありませんか。
ここでの「半ズボン」は、ニッカーボッカーかと思われます。
登山服。クライミング・ジャケット。それはノーフォーク・ジャケットとサファリ・ジャケットを足して二で割ったようなスタイルでしょうか。
どなたか現代に通用するクライミング・ジャケットを仕立てて頂けませんでしょうか。