パンとハンチング

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パンは、英語のブレッドですよね。

パンはその昔、ポルトガルから伝えられたので、「パン」の言葉で親しまれています。
明治のはじめまでの宛字では、「麺麪」などが用いられていたんだそうですが。
米の飯が飽きないように、パンもまた飽きることがありませんね。
第一、ひと口にパンといってもその種類は、多い。食パンもあれば、クロワッサンもあります。
日本はパンの種類では世界のベストスリーに入るのではないか。パンの中に焼きソバが入っていたり。
彼等は毎朝主人の食ふ麺麪の幾分に砂糖をかけて食ふのが例であるが」
夏目漱石が、明治三十八年に発表した小説『吾輩は猫である』に、そのような一節が出てきます。ここからの想像ですが、明治三十七年頃の漱石は、朝にパンを召しあがっていたのでしょうか。砂糖を添えて。
『吾輩は猫である』には、何度かパンの話が出てきます。
「元来ジヤムを何缶舐めたかい」
先生と奥様がジャムの話をする場面があるのですが。奥様は一月に八缶のジャムを使ったと、答えています。
たぶん漱石はパンにジャムをつけるのがお好きだったのでしょう。
「其國人の常食には「パン」を用ひ、「パン」は小麦を以つて製する等の事情よりして」
福澤諭吉が、明治十一に発表した『通俗國権論』に、そのように出ています。
この福澤諭吉の説明から推して、明治十一年の日本ではまだ、パン食は一般的ではなかったものと思われます。
そうすると漱石はわりあい早いパン食だったのでしょうか。もっとも漱石の場合、明治三十三年に、英国留学の経験がありますからね。
「此焼飯の名をばぱんといふなり。」
大田南畝が、文政三年(1863年)に完成させた随筆しゅうう『一話一言』に、そのように出ています。
これは当時のオランダ屋敷での伝聞として。大田南畝は文化元年(1804年)には、長崎奉行所勤めになっていますから。
その時代の大田南畝の目からは、パンが焼飯に見えたのでしょうか。
パンが出てくる紀行文に、『アルプスの谷アルプスの村』があります。昭和三十九年に、作家の新田次郎が発表した作品。
「彼らはルックザックの中へほうりこんできた、鉄道の枕木のように太くて長いフランスパンを、ナイフで切って分け、バターもジャムも背負ってきた大缶を切って、隊員たちの容器に、配り歩いていた。」
アルプスで出会った登山隊の様子を、そのように描いています。
新田次郎は昭和三十六年に、実際にアルプスに登っているのですが。昭和三十六年には、まだフランスパンは珍しいものだったのでしょうね。
また『アルプスの谷アルプスの村』には、こんな文章も出てきます。
「私はハンチングを脱いで雨に当った。濡れ方はたいしたことはないようだった。」
この時のアルプス登山では、新田次郎はハンチングをかぶっていたのでしょう。
どなたか昭和三十六年頃のハンチングを再現して頂けませんでしょうか。
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