アイスクリームとアストラカン

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アイスクリームは、冷菓のことですよね。暖房の効いた部屋でパスタを食べた後にはなぜかアイスクリームが欲しくなってきます。
アイスクリームは明治の時代すでに日本でも作られていたんだそうです。
たとえば明治二年に、町田房蔵が横濱、馬車道で「あいすくりん」を売り出したとの記録があります。その値段、金二分。これは当時の日給の半分くらいだったとか。さぞかし高価な食べ物だったのでしょう。
明治三十二年に、アイスクリームを召しあがったお方に、正岡子規がいます。

「誠は日頃此物得たしと思ひしかど根岸にては能はざりしなり。二杯喫す。」

明治三十二年八月二十三日の『日記』にそのように書いてあります。これは高濱虚子と神田に行った時の話として。「此物」がアイスクリームであるのは言うまでもありません。
つまり明治三十二年頃、根岸にアイスクリームを売る店はなかったけれど、神田にはあったとうことなのでしょう。正岡子規はたぶんこの時が、アイスクリーム初見参だったものと思われます。

「行つて見い、面白いぜ。昨日行つての、アイスクリームを食ふて来た。」

明治四十年に夏目漱石が書いた『虞美人草』に、そんな会話が出てきます。浅井君と小野さんとの話の中に。
ここからの勝手な想像ですが。正岡子規は夏目漱石よりもはやくアイスクリームを食べているのではないか。いや、子規は漱石に、アイスクリームを食べたことを報告していたのではないか。
明治八年には、麹町の「開新堂」がアイスクリームを売り出しているとのこと。
京橋の「風月堂」がアイスクリームを販売するようになったのが、明治二十一年のことなんだとか。
明治十一年「東京日々新聞」五月十九日付には、「アイスクリイム」の広告が出ています。一杯、十銭で。

「つねにうるさくさういつてゐるわたしにして、アイスクリームを「飲む」といふのである。」

久保田万太郎は、『アイスクリーム』と題する随筆の中に、そのように書いてあります。久保田万太郎に言わせますと、アイスクリームは食べるではなくて、「飲む」ものである、と。
久保田万太郎がはじめてアイスクリームを「飲んだ」のは、昭和四年から遡って三十年前の昔だった、とも。
上野の広小路に柳の木が植えられていた時代に。

明治三十八年にアイスクリームを召しあがったお方に、田山花袋がいます。

「その薄白い鶏卵色のアイスクリムが今この卓の上に」

『日記』の中にそのように書いてあります。明治三十八年五月三十日の『日記』に。
田山花袋は、「アイスクリム」と書いているのですが。
アイスクリームが出てくる小説に、『ウィーンの五月の夜』があります。1996年に、レオ・ペレッツが発表した物語。

「夕食のときのアイスクリームには、九クローネ払わざるをえなかった。」

これはウィーンのあるホテルでのこと。また、『ウィーンの五月の夜』には、こんな描写も出てきます。

「タシュケントやアストラハン、あるいはサマルカンダからやってきて、そこで安い買い物をする人たちに絶対出会うに決っている。」

「タシュケント」は、ウズベキスタンの首都。「サマルカンダ」も、ウズベキスタンの街。「アストラハン」は、ロシアの港町。「アストラカン」Astrakhan
とも訓みます。
ここに産する羊の腹子のことでもあります。細かいカールのある表面が特徴。色は黒のみ。
どなたかアストラカンの外套を仕立てて頂けませんでしょうか。

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