薔薇とパルトー

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薔薇は、花の名前ですよね。
英語の「ローズ」rose に相当します。
薔薇の花一本の贈物でも嬉しいものです。ことに真紅の薔薇は。
百本の薔薇の花束をもらって感激しない人はいないでしょう。
薔薇の歴史にも古いものがあるのでしょう。英国では紋章にも多く薔薇が用いられます。
ランカスター家の紋章には、赤い薔薇が描かれて。ヨーク家の紋章には、白薔薇が。
1486年に、ランカスター家のヘンリー七世が、ヨーク家の姫、エリザベスと結婚したために、紅白薔薇の紋章が生まれたわけですね。これを「チュダー・ローズ」と呼ぶのです。
一方、フランスの古書には、『薔薇物語』があります。
1230年頃の、ギョーム・ド・ロリスの作だと伝えられています。

「わたしは、パヴィアやパリに行くのと引き換えにしても、薔薇がいちばんたくさんあるところに生きたくてたまらなくなった。」
『薔薇物語』には、そんな一節も出てきます。

昭和二十五年に、吉行淳之介が発表した短篇に、『薔薇販売人』があります。

「ばら科に属する薔薇という花。これは美女の腕にさりげなく抱えられることもあれば、醜婦の窓辺に飾られて、その感情を唆ることもあろう。」

吉行淳之介は『薔薇販売人』の中に、そのように書いてあります。
この『薔薇販売人』を学生時代に読んだお方に、吉村 昭がいます。

「吉行氏にあっては、街は石膏色であり、乗物は虫で、それは処女作「薔薇販売人」にすでに現れて。」

吉村 昭は随筆『凛とした世界』の中に、そのように書いてあります。
吉行淳之介ご本人も、この『薔薇販売人』を処女作だと考えていたようですね。
「薔薇販売人ではじめて自分の散文が書けた、という手応えがあった。」
吉行淳之介はそのように語ってもいるのですが。

薔薇と写真集なら、『薔薇刑』があります。写真家、
細江英公の写真集。被写体になったのは、三島由紀夫。
昭和三十八年の発行。当時、三島由紀夫の裸体が見られるということもあって、なにかと話題になったものです。
この『薔薇刑』は、三島由紀夫のたっての願いで、細江英公がシャッターを押すことになったのだそうです。
この少し前。細江英公は、舞踏家の土方 巽の写真を撮ったことがあって。三島由紀夫はその写真に心が動いたらしい。

「上半身裸の三島由紀夫が黒いサングラスをかけて日光浴をしていた。テーブルの上にはいま食べ終ったばかりらしい食器類がそのまま残されていた。グレープフルーツと紅茶のようだから午後2時に朝飯が終ったのだろうか。」

細江英公は『「薔薇刑」撮影ノート』の中に、そのように書いています。これははじめて打ち合わせのために、三島由紀夫の自宅を訪ねた時の様子として。

「わたしが連れて行かれたのは、ふしぎな一個の都市であつた。」

三島由紀夫は、細江英公の被写体になった印象について、そのように記しているのですが。

三島由紀夫、細江英公、薔薇刑と三つ並べて想う雑誌に、『血と薔薇』があります。
昭和四十三年に、澁澤龍彦責任編集として出た雑誌。たしか三号までは出ていた記憶があるのですが。
『血と薔薇』創刊号に、三島由紀夫は『オール・ジャパニーズ・ア・パーヴァース』の原稿を寄せています。
また、細江英公は『決闘死』の写真を載せているのです。モデルは、三田 明。
『血と薔薇』創刊号には、長沢
節も原稿を書いています。『血と薔薇』はちょっと奇妙な雑誌だったことは間違いありません。もう二度と作ることのできない雑誌でもあります。

薔薇が出てくる小説に、『隔離の島』があります。フランスの作家、ル・クレジオが1995年に発表した物語。ただし時代はあっち行ったりこっち行ったり、不思議な構成になっているのですが。

「バラ色を帯びた灰色のヴェールの背後うぃ、太陽が船のように航行していた。」

また、『隔離の島』には、こんな文章も出てきます。

「シルクハットをかぶり、詰め物をした袖広外套を着こみ、ゲートルを巻き、ステッキを携えていた。」

これは昔の巴里市内を歩く紳士について。
「袖広外套」。私はここから、「パルトー」paletote を想起しました。
パルトーは、十八世紀のヨオロッパで大流行した細身の外套のこと。
どなたかパルトーを復活させて頂けませんでしょうか。

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