招学鞄
ランドセルは背に負う通学鞄のことである。ランドセルは日本で独自の発展を遂げた鞄と言って良いだろう。
ヨーロッパにも通学用の背負い鞄がないではない。が、そのスタイルの良さと丁寧さ、堅牢度において日本製が優れている。ランドセルは世界に誇るべき鞄である。
ランドセルはオランダ語で、「背嚢」を意味する「ランセル」 ransel から来ているという。このランセルになぜか「ド」を補って、「ランドセル」となったものである。
偶然、フランスの鞄店に「ランセル」がある。しかしフランスの「ランセル」と、オランダの「ランセル」とは無関係である。
パリの「ランセル」は、1867年に、ランセル Lancel という人がはじめたものであるらしい。最初は喫煙具専門店だったとのこと。
「ランドセルは背嚢のこと。特に小學生などの通學用のものにいふ。革製で両側に二本の負革があり、両肩に掛けるやうにしてある。重さが左右平均に肩にかかる點で、普通の鞄よりも健康上には良い。」
三省堂編『婦人家庭百科辞典』 ( 昭和十二年刊 ) には、そのように明快に説明されている。この『婦人家庭百科辞典』の出た翌年、昭和十三年に吹き込まれた童謡が、『赤い帽子白い帽子』。
赤い帽子 白い帽子 仲よしさん いつも通るよ 女の子 ランドセルしょって……
ここにもごくふつにランドセルが歌われている。昭和初期すでにランドセルが通学用として定着していたことが窺えるものである。
『赤い帽子白い帽子』は、武田俊子作詞、河村光陽作曲。そしてこの歌を歌ったのは、河村光陽の娘、河村順子であったと、伝えられている。
「担筺 ( ラントスル ) は、衣服及び諸物を貯ふるもの。」
高野長英訳『三兵答古知幾』(嘉永三年刊 )には、そのように書かれている。ここでの「ラントスル」は、今のランドセルであるように思われる。
嘉永三年とは、1850年のことであり、今から百数十年前の話。日本での「ランドセル」の比較的古い例であろうと、思われる。もしそうであるとするなら、オランダ語の「ランセル」の間に「ド」を入れる習慣は、高野長英からはじまっているのかも知れない。つまり「ラントスル」がやがて「ランドセル」になったのだ、と。
「尖った三角がたの軍帽を被り、背嚢を襷掛に負い、筒袖を身につけ……」
島崎藤村著『夜明け前』の一節。『夜明け前』は昭和十年の発表ではあるが、ここに描かれているのは、幕末。幕軍と官軍とが戦っていた時代なのだ。そしてこの文章は、官軍の兵士の姿である。
「軍帽」とあり、「筒袖」とあるのだが、これらはすべて西洋式のものを指している。ということは「背嚢」もまた今日のランドセルである可能性が高い。事実、幕末すでに軍用鞄としてのランドセルが採用されていたのである。
「英麿は外套の頭巾をかぶり、革袋 ( ランドセル ) を後に背負つて、悠然と歩いて來るのを、与助は早くも見附け出して……」
巖谷小波著『當世少年氣質』( 明治三十年発表 ) の一文に、そのように出ている。
「秀麿」とは、清原秀麿。名家の若様。場所は学習院の門前。外は雨が降っている。そこに車夫の与助が若様を迎えに来たところ。
与助は若様に、「車にお乗りください」という。馬車で迎えに来ている。が、若様は級友の手前もあって、「絶対に乗ってやるもんか」と答える。それはともかく明治中期の学習院で、ランドセルが使われていたことが理解できる小説であろう。
「神田錦町の華族學校は殆ど落成に近く、且つ生徒の試験も済み居りたれば、六月一日を以つて開校されますに……」
明治十年『東京曙新聞』五月二十三日付の記事に、このように出ている。これこそ今の学習院のはじまりなのである。
「造園の入費ばかりも凡そ四萬圓程なりし……」
記事にはそんなことも書かれている。それはともかく、もともと学習院は、皇族や華族の子弟を教育するための学問所として開校されたものである。
明治十八年五月、学習院は生徒の馬車などでの通学を禁止。これは華美に流れることあっては困るとの配慮からであろう。今の時代でいえば、幼稚園児を高級車で送迎する傾向にも似ていたものと思われる。
学習院の通学が馬車から徒歩に変わって、学業道具を入れる鞄が必要になったのである。その折も折、皇太子が学習院に入学することになる。この時、伊藤博文が皇太子に特別製の鞄を献上したのが、今のランドセルであったという。伊藤博文は陸軍将校の背嚢を見本として作らせたのであるらしい。少なくともランドセルの使用が学習院にはじまっていることは、間違いない事実である。
明治二十三年、学習院は「ランドセルは黒革製とする」の規定を出している。
オランダに生まれ、日本で完成されたランドセルを、通学用に限定するのは、あまりに惜しいのではないだろうか。