今姿
モードはふつう「様式」と訳される言葉である。そしていくつかの訳語にひとつに「流行」含まれる。
モードは英語でもあり、フランス語でもある。というよりもフランスでの「モード」がほぼそのままに、イギリスに輸入されたものであろう。
イタリアで、「モーダ」moda。ドイツでも、「モーデ」 mode。これらはラテン語の、「モドウス」 modus から出ている。「モドウス」は、「尺度」の意味であったという。「尺度」から、「モード」から生まれているのだ。
そこで『和仏大辞典』 ( 白水社 ) を開いてみるとしよう。まず最初に、「生き方」、「考え方」、「やり方」の意味が並んでいる。その次に、「流行」、「新型衣装」と説明されている。さらに親切なことには、モード mode とヴォーグ vogue の違いについても述べられている。
「一時的な気まぐれによるものをモードと言い、ヴォーグは価値判断に基づく批判的な好みいう。」
フランスにおける「モード」と「ヴォーグ」は、少なくとも同一ではないことが、理解できる。モードは一過性、ヴォーグは連続性ということなのであろうか。それはともかく、「モード」の第一義が、「生き方」であることには意表を衝かれる想いがする。なによりもまず、モードは生き方なのであるのだ、と。モードはその人の生き方のあらわれなのだ、と。
「英語のモードはファッションと同義ではあるが、ファッションの元の意である上流階級における流行・習慣を指すことが多い。米国や日本の場合でもその意で使い分けることがあり、モードが、いわゆるハイ・ファッションと同義に使われることもある。」
石山 彰編『服飾辞典』では、そのように説明されている。つまり「モード」はそれぞれの国によって解釈が違うのだ。そして日本での「モード」は、アメリカの解釈に近いのであろう。端的に言って日本の「モード」はアメリカ経由と考えて良いのかも知れない。フランスにはフランスのモードがあり、イギリスにはイギリスのモードがあり、アメリカにはアメリカのモードがあるわけだ。
ところでここにひとつの辞書がある。『モード小辞典』と題されている。題名にはフランス語も添えられていて、『プティ・レキシック・ド・モード』と記されている。昭和三十七年、山田夏子の労作である。『モード小辞典』には、次のような一節がある。
「フランスに於けるモードの二大要素ともいわれるエレガンス ( 優雅 ) と、サンプリシテ ( 単純さ ) は独特の色階調よって完成……」。 ( 原文はフランス語交じりであるが、引用に際して省略させて頂いた)
フランスのモード界では、「エレガンス」と「サンプリシテ」とが不可欠であったことが窺える一文であろう。
「モードには二つの違った種類があります。私が「グランドモード」と「プティットモード」と呼んでいるもので、「真のモード」と「移ろいやすいモード」のことです。」
ジュヌヴィエーヴ・A=ダリオー著『新・エレガンスの事典』では、そのように説明されている。著者、マダム・ダリオーは、1914年にパリに生まれた女性。1930年代以降、長くモード界にあった人物である。そのダリオーは、「真のモード」と「移ろいやすいモード」とがあったのだ。
自らを「モード屋」と称したのは、中村乃武夫である。洋服屋でも、デザイナーでもなく、「モード屋」。その著、『モード屋の目』は名著である。ところで、日本での「モード」は、いつ頃から使われていたのか。
「さて、モダン・ボオイとは、この時代のモオドを持つた若者である。ではこの時代の流儀 ( モオド ) とは何であるのか?」
片岡鉄兵著『モダン・ボオイの研究』 ( 昭和二年 ) の一文である。ここでは「モオド」ではあるが、モードの比較的はやい例であろう。それはともかく、ここでの「モオド」は流行と同時に流儀の意味をも含んでいるのが、解る。
「彼女たちのモードに対する感覚は常に新聞記事より一歩遅れている。」
安藤更生著『銀座細見』 ( 昭和六年 ) に出てくる一文。昭和六年頃には、新聞がモードをリードしていたのだろうか。それはさておき、ここでの「モード」は「流行」の意味であろうと思われる。
単に時代の流ればかりではなく、片岡鉄兵の「モオド」と、安藤更生の「モード」との間には、微妙な違いのあることに気づくのだ。「様式」であるのか、「流行」であるのか。
「三十代の男たちは黒地の絣銘仙に、黒無地 ( メリンス ) なぞの兵児帯をぐるぐる巻きつけていたが、今のカルダン・モオドの男たちよりもフランスに密着していた。」
森 茉莉著『私の美の世界』には、そのように書かれている。これは大正末期の着こなしを振り返っての文章なのだ。彼らはたしかに着物ではあったが、フランスの詩を原文で口ずさんだりしていたというのである。
森 茉莉の郷愁と言ってしまえばそれまでのことでもあろう。しかしここでの森 茉莉の「モオド」が、「流行」ではなく「生き方」に近いことは、一考の余地がある。