紳士専用、秘密の留具
ブレイシーズは、サスペンダーのこと。サスペンダーは、ズボン吊りのこと。
ふつう、イギリスで「ブレイシーズ」、アメリカで「サスペンダーズ」という。フランスなら、「ブレテル」 bretelles となる。
トラウザーズを穿く時の要諦は、ずり落ちないことにある。そのためにベルトがあり、ブレイシーズがあるわけだ。そのいずれを使うのかは、趣味の問題である。
今日のブレイシーズの原型は、1787年頃すでにあったという。ただしブレイシーズの名前はまだなく、「ギャロウシーズ」 gallowses と呼ばれたものである。
「ギャロウシーズ」は、もともと「絞首門」の意味。罪人を処刑する時の柱。絞首門は、左右一対として立っている。この柱の様子にその時代のズボン吊りを擬えたものであろう。
時は十八世紀、まだトラウザーズは紳士の穿き物ではなく、ブリーチズの時代でもあるから、多少野蛮な発想であったのも致し方ない。
初期のギャロウシーズは、その両端にボタン・ホールのある一対の帯であって、これをブリーチズの腰に付けたボタンに留めたのである。ややこれに近いものは、今でも幼児の半ズボンにも見られるのではないだろうか。
ギャロウシーズはたしかに上品ならざる表現である。が、「ギャロウシーズ」は、比較的最近まで静かに使われてもいたのだ。そしてまた、「ギャロウシーズ」はアメリカでも口にされた言葉でもある。
ギャロウシーズの一方、「ブレイシーズ」の表現が用いられるようになるのは、1810年代に入ってからのことである。「ブレイス」 brace には、「ピンと張っておく」の意味があって、ブリーチズなどを「ピンと張っておく」ための道具だったのであろう。
一方、アメリカで「サスペンダーズ」の言葉が一般に使われるのも、1810年頃のことである。「サスペンダーズ」も、「ブレイシーズ」も時期としては、ほぼ同じ時代に登場しているわけである。
ボタン・ホールのある一対の細い帯から発展して、その先端が「ダブル・タング」式になるのは、1825年頃のことである。そして、ほぼ同じ頃、キャンバス地に代表される丈夫な生地に加えて、シルク地なども使用されるようになる。1830年代に入ると、絹地の上に刺繍が施されるようにもなったという。
「私は貴方のために美しい刺繍入りのブレイシーズを用意してあるのです。」
1848年の『ヴァニティ・フェア』の一節。もちろん英国の作家、ウイリアム・サッカレーの代表作。1840年代には既製品のブレイシーズは少なく、ほとんどが家庭内での手作りによるものであった。時には、恋人からの心を込めた贈物としてのブレイシーズが少なくなかったのだ。
「マリイの手によって宗教画が刺繍されたブレイシーズ。」
これは1853年の『ヴァーダント・グリーンの冒険』の一文。著者は英国の詩人、カサバート・ビーダである。ここにも、エンブロイダリー・ブレイシーズが登場している。少なくとも1850年代には、美事な刺繍をあしらったブレイシーズが珍しくはなかったものと思われる。
「プレイン・エラスティック・ウエッブを使った、ダブル・スライディング・エンドのブレイシーズ」
1869年『ザ・テイラー・アンド・カッター』誌の説明である。要するに、1860年代には、一部に伸縮性のある生地が使われて、サイズ調整可能のブレイシーズが現れていたのだろう。
「「それなんだがね」と、大男のマイケル・スコットは、がんじょうな胸元の、ズボンつりをぴしりといわせて、うなるようにいった。」
これは『見えない恋人の冒険』の一節。1934年に、エラリー・クイーンが発表した小説である。
紳士にとってのブレイシーズは下着の一種でもあって、そっと隠しておくのが粋なのだ。昔の洒落者の中には、ウエイストコートを脱ぐ時にはブレイシーズも一緒に外したりしたという。