ヘルマンとペンドルトン

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ヘルマンという女の人がいたんだそうですね。リリアン・ヘルマン。アメリカの劇作家。赤い髪の、とてもおしゃれな人だったそうです。代表作は、1934年の『子供の時間』でしょうか。
第二次大戦中は、戦争反対の立場に立っていたそうです。が、それ以上に、ヘルマンはハメットを抜きには語れない人物でしょうね。ヘルマンがハメットに会ったのは、1930年のこと。それから1961年にハメットが世を去るまで、ふたりは仲良しだったのです。ハメットの亡きあと、その版権はヘルマンが持っていたはずですが。
ヘルマンとハメットがはじめて出会ったのは、1930年11月25日のこと。ただしふたりで、「11月25日だった」と決めただけのことで、ほんとうには忘れていたのですが。
でも、出会いの場がハリウッドのレストラン「ムッソ&フランク」だったのは、間違いないようです。
ダシール・ハメットはとびきりの、伝説的洒落者でした。古今東西のハードボイルド作家の中で、燦然と輝く第一人者であります。また、女の服にも煩くて。
「トゥイードの服に絹靴下を穿くべきではない。」
いつもそんな風に、言ったものです。リリアン・ヘルマンはトゥイードの服に絹靴下を穿かない方の女性だったのですね。
晩年のハメットに親切だったのも、リリアン・ヘルマンだったのです。今、『ガラスの鍵』を読む時、ほんの少しヘルマンを思ってみるのも一興でしょう。 『ガラスの鍵」がイギリスで出版されたのは、1931年1月20日のこと。同じ年のアメリカ版よりはやかった。アメリカの出版は、4月24日のことですから。
ダシール・ハメットをはじめとするハードボイル作家が寄稿したのが、当時のパルプ・マガジン。古いパルプ・マガジンの蒐集家が、ビル・プロンジーニ。ビル・プロンジーニのミステリには、「私」という名無しの探偵が出てくる。そして「私」の趣味がパルプ・マガジンの蒐集であるのも、当然のことでしょう。ビル・プロンジーニの『復讐』を読んでいると。

「年の頃三十、リーヴァイズのジーンズにモカシンをはき、ペンドルトン・シャツを着ている。」

そんな描写が出てきます。これは「私」が、依頼人の自宅を訪ねる場面。
ペンドルトン Pendlton は、アメリカのスポーツウエア・メーカー。1909年の創業。ネイティヴ・アメリカンの毛布でコートを仕立てたのがはじまりなんだそうですね。質の高いウールでシャツを作るのが得意なメーカーでもあります。

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