ミロールとミトン

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ミロールで、歌でといえば、シャンソンにありますよね。『ミロール』。シャンソンの名曲であります。

♬ おいでよ ミロール

たしかそんなふうにはじまるんでしたね。ミロール m il ord は、英語のマイ・ロード my l ord のフランス版なんだそうです。街で女が殿方に呼びかける。「ミロール!」。もともとの言葉はそんな感じだったという。
1959年に、ピアフが作ったシャンソン。もちろん、エディット・ピアフであります。ピアフの歌う『ミロール』には実感が籠っているのも、当然かも知れません。
ピアフは戀多き女。よくそんなふうに言われることがあります。でも、ピアフがほんとうに愛した男は、セルダンだったかも知れませんね。当時、ミドル級の、ボクシングのチャンピオンだった、マルセル・セルダン。
セルダンとピアフとが、はじめて出会ったのは、1946年7月7日の夜。ウソみたいですが、ほんとうの話。
1946年7月7日。この日、セルダンは、ボクサーのウイリアムとの試合があって。その試合の終わった後、クラブへ。巴里の「クラブ・デ・サンク」へ。この時、クラブで歌っていたのが、ピアフだったのですね。
1948年1月には、ピアフはニュウヨークへ。ニュウヨークのクラブ「ヴェルサイユ」に出演するために。
この時、セルダンもNYで、ボクシングの試合があって。ピアフは、「ウォールドルフ・アストリア」に宿泊。そこに試合の終わったセルダンから電話があって、夕食に。
セルダンはピアフをドラッグストアに誘う。勘定は、40セント。ピアフがセルダンに皮肉を言うと。実はセルダン、「ル・グルメ」に予約してあったのです。「ル・グルメ」はその頃、NYでいちばんと謳われたレストラン。まあ、ボクシングでいうところの、フェイントだったのでしょう。

「モナムール、きみを愛してる、本当に狂ったように、ぼくはきみを強く抱きしめているよ。」

1949年5月21日(土曜日 ) の、ピアフ宛の手紙に、セルダンは、そのように書いています。
1949年10月27日。セルダンはNYのピアフに会うために、飛行機に。この飛行機がNYに着くことはありませんでした。墜落。セルダン死去。
ここから『愛の讃歌』が生まれたとの説も。冷静な意見としては、「いや、それ以前に………」とも。ただし、ピアフ絶世の歌唱であることは間違いないでしょう。

♬ あなたの燃える手で………………。

ピアフが出てくる小説に、『アンリ・マルタン通り101番地』があります。レジーヌ・デフォルジュが発表した物語。

「ビストロの開いた扉から、笑い声や話し声が響いてきた。しばらくしてエディット・ピアフのシャンソンがそこに加わった。」

また、『アンリ・マルタン通り101番地』には、こんな描写も。

「派手な色の毛糸の帽子をかぶり、お揃いのミトンと短い靴下を身につけて………………………」。

ミトン m it on は、昔の籠手の、「ミテエヌ」 m it a in e からきているとも。
粋なミトンを嵌めて、「ミロール」と呼ばれたいものではありますが。

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