イギリスは、知の都でもありますよね。英國に留学した日本人の数は、星の数ほどもあるでしょう。
わりあいと古いところでは、伊藤博文。伊藤博文は文久三年、密航の末、英國に着いています。まだ、「伊藤俊介」を名乗っていた頃ですが。
明治はじめの賢人で英國留学経験のないお方を探すほうがはやいのでは、と思われてくるほどです。
明治の賢人で、英國留学といえば、南方熊楠を忘れてはなりません。
南方熊楠と書いて、「みなかた くまぐす」と訓みます。なんだか筆名のようですが、本名。南方熊楠こそ、空前絶後の賢人でありましょう。
日本を代表する賢人のおひとり、柳田國男は南方熊楠を、このように表現しています。
「日本人としての可能性の極限」
南方熊楠は、たしかにその通りの人物であったでしょう。
明治十九年十二月二十二日。横濱港を船で発っています。西暦の1886年のことです。まずアメリカに着き、それからイギリスに渡っています。
南方熊楠はイギリスのどこで学んだのか。大英博物館で。大英博物館には今も昔も大図書館が併設されていて、その規模には圧倒されます。
では、南方熊楠は大英博物館の図書館で、どんなふうに勉強したのか。海外のあらゆる文献を、ノオトに書写して。ただし、九カ国の言語で。南方熊楠は少なくとも、七カ国語に堪能であったという。
南方熊楠の「睡眠書」は、シェイクスピア全集。睡りに入る前に、ベッドで読む。そしてついに、熊楠はシェイクスピア全集を読破したという。
南方熊楠は膨大な『ロンドン日記』を遺しています。その中に。
「衣服ニ領成る。フロックコート、モーニング。何れもチョキ、股引とも。」
1895年11月5日。火曜日の日記に、そのように書いています。
熊楠は、「チョキ」と書いているのですが。チョッキのことかと思われます。また、「股引」はトラウザーズではないでしょうか。
ここで興味深いのは、「衣服」の数え方。「二領」とあります。少なくとも明治はじめまでは、一領、二領、三領………が少なくなかったようです。
一領、二領は、江戸期以前の、鎧の数え方だったのです。幕末から明治のはじめにかけて西洋服が入ってきた時、日本人は「鎧の一種」と考えたのでしょう。それがやがて「一着」と数えるようになったのです。
「一領」と数えたくなるようなラウンジ・スーツを探しに、イギリスに行くとしましょうか。