フィンガー・ボウルは、指を洗うための水ですよね。もう少し正確に申しますと、指を洗うための水が入っている器のこと。
日本人は箸で食べる。西洋人はフォークとナイフで食べる。ごくふつうの場合には、手を汚さない。つまり、フィンガー・ボウルは必要ない。
けれども、時と場合によって、指先で直接口に運ぶことも。たとえば、まるごと一尾の海老とか蟹とか、ジビエとか。
別に考えますと、「手が汚れようとも、食うぞ」という姿勢の表れ方とも。
第一、古代ロオマの食事は多く手づかみだったという、フォークもナイフも客用にはなかった。ただ、古代ロオマの時代には、使用人がたくさんいたので、手をきれいにするのもぜんぶ召使いがやってくれたのでしょう。
その昔は使用人がやってくれたことを、やや「民主的」にしたのが、フィンガー・ボウルとナプキンだったのかも知れませんね。
あらかじめフィンガー・ボウルを使うことが分かっている場合には、上着の袖口を折り返しておく。袖口を濡らさないためには。シャツも濡れますが、シャツは一度袖を通したら洗うのが建前なので。
フィンガー・ボウルには、失敗談がつきもので。洗う水とは知らず、飲んでしまったとか。
昔むかし、英國王室の晩餐会で、アジアの王族を招いたことが。そのアジアの王様がおやりになった。フィンガー・ボウルの水をお飲みに。これをご覧になった英國皇太子が同じくお飲みに。これで事なきを得たという。まあ、「礼儀」もなかなか奥が深いものであります。似たような話は、『吾輩は猫である』にも。むろん、夏目漱石。
「すると聯隊長が突然下士官の健康を祝すと云ひながら、矢張りフヒンガー、ボールの水を一息に飲み干したさうだ。」
漱石は、「フヒンガー、ボール」と書いているのですが。ある英國の連隊で、下士官がフィンガー・ボウルの水を。それを見た連隊長が「乾杯」をした話を紹介しています。
フィンガー・ボウルが出てくる小説に、『歓びの幽霊たち』があります。D・H・ロレンスが1920年代に発表した短篇。
「ラスキル卿未亡人は、フィンガーボールで指先をあらうと、いやにはっきりしたしぐさでナプキンをテーブルに置いた。」
また、『歓びの幽霊たち』には、こんな描写も。
「そこに並んでいる無数の人の顔やプラストロンなどが、あらゆる微細な点にいたるまで彼女に見えたかどうか………………」。
「プラストロン」は、ふつう礼装用のスティフ・ブザムのこと。昔の武具の胸当てだったので、その名前があります。
ただし、時と場合によって、胸当て部分だけを独立させたアクセサリーのことも意味します。「プラストロン」の上から上着を羽織れば、シャツなりスェーターなりを重ねているようにも思えるので。