ブラームスとブランド

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ブラームスは、作曲家ですよね。ヨハネス・ブラームス。もうそれ以上の説明は要らないでしょう。サガンの小説に、『ブラームスはお好き』があるくらいですから。
ヨハネス・ブラームスは、1833年5月7日。ハンブルクに生まれています。お父さんの
ヨーハン・ヤーコプもまた、音楽師でありました。ヨーハンは主にコントラバスの奏者だったと考えられています。
おそらくお父さんの影響もあったのでしょう。ヨハネス・ブラームスは、1837年頃から、自分が聴いた音楽の記録つけはじめたと伝えられています。もしそうだとすると、四歳ですでに音楽に興味を示したことになるでしょう。
ブラームスの曲でよく知られているものに、『交響曲第三番へ長調』があります。
1883年の作曲。ブラームス、五十歳の時のこと。これは、避暑地である、ウイスバーデンで作曲されています。
1883年、なぜブラームスはウイスバーデンの避暑地を選んだのか。一説に、歌手の
ヘルミーネ・シュピースがいたからだ、と。
ブラームスは、ヘルミーネの歌を気にいり、すぐに伴奏を申し出たそうです。ヘルミーネは若く、美しい女性でもあって。ブラームスはヘルミーネに想を得て、いくつかの曲を創ってもいます。
しかしブラームスで女性となれば、クララを忘れてはならないでしょう。
ブラームスがはじめてロベルト・シューマンに会ったのは、1853年9月30日のこと。
デュッセルドルフのシューマンの自宅で。

「………彼もまた神からじかに遣わされた天才のうちのひとりなのだ。……………………。」

クララ・シューマンは、1853年10月11日の『日記』にそのように書いています。
ここでの「彼」がブラームスを指しているのは、いうまでもないでしょう。
1853年にはブラームス、二十歳。クララ、三十四歳であったのですが。その後、
ロベルト・シューマンが病に倒れて。クララが一家の主とならざるを得なくなって。

「………愛するヨハネス、そのために時間を取って下さい  ー  一分でも長く  ー」

1856年5月16日の手紙に、クララはブラームスに宛てて、そのような文章を書き送っています。もちろんブラームスからクララへの手紙も数多く遺っているのですが。
でも、ブラームスにとってのシューマンは恩人でもありましたから、心の奥は複雑であったでしょうね。
ブラームスが出てくるミステリに、『誰よりも狙われた男』があります。2008年に、
ジョン・ル・カレが発表した物語。

「………ラジオから静かな音楽が流れていた。ブラームスだと思った。」

なんでもない一行ですが。ひとつの想像として、ジョン・ル・カレはブラームスがお好きだったのではないでしょうか。
『誰よりも狙われた男』には、こんな描写も出てきます。

「………カーステンのローファーと、デザイナーもののジーンズ。」

これはハンブルクからやって来て若者、「イッサ」の服装。靴下に至るまで、有名品で揃えているのです。
私たちがいうところの「ブランド」なのでしょう。
「ブランド」は、銘柄でしょうか。「ブランド」は必ず上質で、上品な趣味ですから、選ぶには便利でしょうね。
「ブランド」を支えているのは、「誇り」。誇りがあるから、高品質を保つ。でも、万一、矜持よりも商売が勝ったなら、高品質は保てません。
矜持なのか商売なのか。理想と現実。このあたりの釣り合いが難しいところなんでしょうね。

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