俥と久留米飛白

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俥は、人力車のことですよね。人の力で挽く車なので、「俥」の字になってのでしょう。
今は多く、タクシーやハイヤーの時代。でも、江戸期には、駕籠。明治には俥だったものです。

🎶 ちょっとお待ちよ  車屋さん……………………。

1961年の美空ひばりの歌に、「車屋さん」があります。この場合の車屋さんは、「車夫」のこと。むかしは俥を挽く人のことを、「車夫」といったようですね。
俥の話が出てくる小説に、『くるま宿』があります。松本清張が、昭和二十六年に発表した短篇。このはじめに。

「この年人力車の数は全国で十三万六千七百六十一両と記載されている。」

そのように書いてあります。「この年」とは、明治九年のこと。つまり『くるま宿』は、
明治九年に背景が置かれているわけです。
ここに「全国」とありますが。そのほとんどが東京だったことを考えれば、明治のはじめ、
いかに俥の時代だったかが分かるというものでしょう。
松本清張の第一作は、『西郷札』。『くるま宿』と同じく昭和二十六年に執筆されたもの。

「昭和二十六年というと私が四十二のころで、二十三四年間は何も書かなかったわけだ。」

松本清張は「あとがき」に、そのように懐古しているのですが。若い頃、松本清張は文学を目指していて。芽が出ないので、諦めていた。それが当時『週間朝日』が、懸賞小説を募集していたので書いたのが、『西郷札』。『西郷札』が入賞となったので、ふたたび筆を執ることになったんだそうです。
そして三作目に書いたのが、『或る「小倉日記」伝』。『或る「小倉日記」伝』が、
芥川賞受賞となってのであります。
その頃、松本清張は小倉在住で、『或る「小倉日記」伝』には、地の利を得ていたとは言えるでしょう。
『小倉日記』が、森 鷗外のものであるのは、いうまでもないでしょう。明治三十二年六月十六日。新橋駅を出るところから、『小倉日記』ははじまっています。
森 鷗外の小倉時代を識る上では、貴重この上ない資料といえるでしょう。

「新に建てたる井上伝子之碑を看る。井上氏は久留米飛白布の祖なり。」

明治三十二年九月二十九日の『小倉日記』には、そのように出ています。
この日、森 鷗外は熊本から久留米に移動しているのですが。その途中、「井上 伝」の
石碑を観ています。
井上 伝は、旧姓、平山 伝。天明八年、久留米に生まれています。平山 伝は十二歳の頃、藍染め地がところどころ色褪せているのに気づいて。「面白いなあ」と。
ここから苦心惨憺して、今の久留米飛白を発明したと伝えられています。
明治十年は西南戦争があった年。関東からの兵隊が土産に久留米飛白布を買って。ここから全国的に久留米飛白が流行るようになったんだとか。

「婢元に飛白布を買はせ、新に禽ちゅうを製せしむ。」

明治三十二年九月七日の『小倉日記』に、そのように書いています。今様に申しますと。
「女中に飛白を買ってもらって、寝巻を仕立ててもらった」。そんなところでしょうか。
小倉時代の森 鷗外は夜寝るとき、久留米飛白の浴衣だったのではないでしょうか。
どなたか久留米飛白でシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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