髪と嘉平次平

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髪は、ヘアのことですよね。
昔は「かもじ」とも言ったらしい。どうして「かもじ」なのか。かみなので、「かではじまる言葉」と遠回しに言ったからなんだそうですね。
「しゃもじ」と同じ。杓子といえば直接で、これを婉曲に言って、「しゃもじ」。「しゃ」ではじまる言葉ですよというわけなんでしょう。
「髪は女の命」とはよく言うところでしょう。女の黒髪には魅力が棲んでいます。
「髪を下ろす」は、尼になること。よほどの覚悟がなくては、「髪を下ろす」ことはできません。
「髪の長きは七難隠す」。髪が長い女はより美しく見える、ということなのでしょう。
「髪着込む」。そんな表現もあったらしい。

「………口うちすげみて、髪着こめたるあやしの者どもの……………………。」

『源氏物語』には、そのように出ています。
ここでの「髪着こめたる」は、女の人が長い髪を、着物の内側に収めての着こなしなんだとか。少なくとも平安時代にそんなやり方もあったのでしょうね。
平安時代から江戸時代へ。江戸期にあって今ないものに、関所があります。
俗に、「入鉄砲出女」の言い方がありまして。鉄砲を入れない、女は出さないとの決まりがあったという。
鉄砲は治安の乱れ、出女は人質を失うことであったからでしょう。
十一歳で関所を通った人物に、内藤鳴雪がいます。

「………女は関所で頭髪をかき分けて検査される。」

内藤鳴雪著『鳴雪自叙伝』に、そのように出ています。
当時の通行手形には、手相ならぬ「毛相」が書いてあって。本人かどうかを調べてという。そのために、関所には必ず「毛相」を調べる係の女がいたんだそうですね。
その時代の女は、明日は関所という場合には髪を洗って、髷を結わなかった。調べてもらいやすいように。
内藤鳴雪は幕末から明治のはじめに青年期を過ごしたお方で、『鳴雪自叙伝』は貴重な資料でもあります。

「衣服も多くは唐桟に嘉平次平袴位を着るし……………………。」

これは明治のはじめに、内藤鳴雪が文部省に通う時の服装。着物も着、西洋服も着たと、書いています。
「嘉平次平」と書いて、「かへいじひら」と訓みます。ひとつ生地名に「平」がふたつ入っている珍しい例でもあるでしょう。
幕末に、今の埼玉県入間市の、藤山嘉平次が創案した生地なので、「嘉平次平」の名前があります。

「………一巻のブツクを懐にして、嘉平治平の袴の燒海苔を綴れる如きを穿ち……………………。」

明治三十年に、尾崎紅葉が発表した『金色夜叉』には、そのように出ています。
尾崎紅葉は、「嘉平治平」と書いているのですが。

「………黒紬の羽織に嘉平次平の袴……………………。」

小栗風葉の『魔風恋風』にも、「嘉平次平」の袴が出てきます。小栗風葉は、「嘉平次平」
と書いて。これは刀剣鑑定師の、佐久間信元の服装と設定されています。
もともとの「嘉平次平」は袴地だったようです。
どなたか嘉平次平で、スーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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