アメリカは、先進国ですよね。経済大国でもあります。日本とも浅からぬ縁で結ばれていること、いうまでもありません。
「アメリカがくしゃみをすると、日本が風邪をひく」。
そんな言い方があったほどです。
そんなこともあって、過去、アメリカに留学した人材が枚挙に暇がないでしょう。
たとえば、永井荷風。永井荷風がアメリカに留学したのは、明治三十六年のこと。お父さんの永井久一郎は、息子を経済人にしたいと思っていたので、アメリカを選んだのですね。
でも、実際の荷風はもうその頃すでに作家になることを夢見ていたのですが。
それで、アメリカから、フランスへ。フランスのリヨンから巴里へ出たわけであります。そのあたりの様子は、永井荷風の『あめりか物語』、『ふらんす物語』に詳しく書かれています。
話は少し飛ぶのですが。明治四十三年に、「慶應義塾大学」で、文學部の改革が。慶應の文學部をもっと充実させようということであったようです。
そこで、森 鷗外と、上田 敏とが文學部の顧問に。そして森 鷗外が主任教授として、白羽の矢を立てたのが、永井荷風。永井荷風としても森 鷗外の指名だったので、断るに断れなかったらしい。
いずれにしても、明治四十三年から、永井荷風が文學部の教壇に立ったことは間違いありません。
そして永井教授の授業、好評だったのです。講義まことに面白く、雑談はさらに面白かったという。まあ、それはそうでしょうね。
この時の聴講生のひとりが、小泉信三。小泉信三は理財科を卒業して、慶應に残っていたのです。理財科は今の経済学部。
経済学部の生徒だった小泉信三が聞きに行くくらいに、永井荷風の話は面白かったに違いありません。
小泉信三と同級だったのが、水上瀧太郎。これで、「みなかみ たきたろう」と訓みます。
ただし、筆名。本名は、阿部章蔵。阿部章蔵のお父さんが、阿部泰蔵。
水上瀧太郎こと、阿部章蔵は、明治四十五年三月。アメリカに留学。「ハーヴァード大学」で、経済学を学んでいます。
大正三年六月に、「ハーヴァード大学」を卒業。その後、倫敦に。倫敦では、大英博物館の図書館で、英文學の勉強を。
大正四年の十二月には、巴里へ。巴里ではやはり留学中の、小泉信三に会っています。
巴里では、プラス・ド・ラ・ソルボンヌの、「オテル・セレクト」に住んだ。小泉信三もまた、「オテル・セレクト」の住人だったのですが。
大正五年に日本に帰った水上瀧太郎は、「明治生命」に入っています。水上瀧太郎は文士と、会社員とを巧みに両立させた人物だったのです。つまり、阿部章蔵と、水上瀧太郎とを。
大正八年には、「明治生命」の専務取締役にもなっています。その一方で、当時休刊していた『三田文學』を復刊させたのも、主に阿部章蔵だったのですね。
水上瀧太郎が、大正十三年に書いた小説に、『ファイヤガン』があります。この中に。
「………或るものはまたちやんとしたアルパカの上衣に白のズボンといつた、會社の勤人らしい風をしてゐた。」
これは、警察の刑事部屋での様子。雑な恰好の刑事もいれば、ビジネスマンのような身なりの刑事もいた、という描写なのです。
水上瀧太郎の小説を読んでいる、何度か「アルパカの上衣」が出てくるのです。夏の場面で。
大正十五年に、水上瀧太郎が発表した小説に、『大阪の宿』があります。どうして『大阪の宿』なのか。この時代、阿部章蔵は「明治生命」の大阪支店長で、大阪の宿に住んでいたからなんですね。この中に。
「夏になると、勤人は一斉に、白いずぼんに白い靴、アルパカかなにかのぺらぺらした上着を着て、涼しい顔をしているのが普通だが……………………。」
そんなふうににも書いています。また、この文章のすぐ後に。
「どうもあのぴかぴか光るアルパカや……………………。」
とも出ているのです。
つまり当時の「アルパカ」は、光沢のある夏生地だったことが窺えるでしょう。なぜか。
大正末期の「アルパカ」は、多く絹の交織地だったからです。だからこそ、昭和になってからは、裏地にも使われるようになったのでしょう。
どなたかもう一度夏素材としてのアルパカを復活させて頂けませんでしょうか。