放浪記とポーラー

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

放浪記は、よく知られていますよね。林芙美子の小説。
『放浪記』は小説であり、また芝居でもあります。芝居とは別に、映画化もされています
林芙美子の『放浪記』は、昭和三年に発表。話自体は明治期に遡ります。
それというのも林芙美子は幼い頃から日記をつけていて。その日記をもとに創作したのが、
『放浪記』なのです。
『放浪記』のはじめのところに、こんな文章が出てきます。

「………父は四國、伊豫の人間で、太物の行商人だつた。」

もちろん「太物」と書いて、「ふともの」と訓みます。この太物は、麻や綿の生地のこと。少し古い言い方ですが。
太物に対するのが、「呉服」。「呉服」はもともと絹織物の意味でありました。つまり、布地を大きく二つに分けると、「呉服」と「太物」とがあったわけですね。
林芙美子が世を去ったのは、昭和二十六年六月28日のこと。このすぐ後に、川端康成は、
『林芙美子さんの死』という文章を書いています。この中に。

「………その時分、林さんは死を書いてゐたが、本當に親しくなつたのは、「放浪記」が出て、改造などに書き始めてからであつた。……………………。」

ここに、「その時分」とあるのは、川端康成が本郷に下宿していた頃の話。川端康成が、
東京大學を卒業したかどうかくらいの頃。余談ですが、「改造」は、その時代にあった雑誌の名前です。
林芙美子は若き日の川端康成を、本郷に訪ねているわけですから、はやくからその文才に注目していたのでしょうね。
川端康成はまた、『めし』のあとがきにも文章を寄せています。『めし』は林芙美子の絶筆。遺作。未完の小説。
川端康成は『めし』の「あとがき」に、林芙美子が好きだった言葉を並べています。そのひとつに。

私は愛する眼をもつてゐて幸福だと思ふ。

このひとつの言葉で、林芙美子の人間像が浮かんでくるようではありませんか。
『放浪記』と同じ昭和三年に発表された小説に、『放浪時代』があります。龍膽寺雄の創作。この中に。

「僕は素肌へじかに着けた汚れたポーラーの服地を通して、皮膚の引締まる様な冷気を一時覚えた。」

「ポーラー」が出てくる小説としては比較的はやい例かも知れません。ポーラーは、夏のウール地のことです。
もともとの英語は、「ポーラル」P or al 。イギリス、「エリソン社」の登録商標だったもの。それが日本に伝えられて、多く「ポーラー」と略されるようになったものです。
「エリソン社」は、「ポーラス」p or o us から、「ポーラル」の商品名を考案したのでしょう。「ポーラス」は、「多孔性」の意味。結局のところ、空気をよく通してくれる生地の意味だったと思われます。

「………それを紛らすために衣裳鞄からポーラルの單衣と單帶とを出して着替へたり……………………。」

谷崎潤一郎の『細雪』にも、そのような一節が出てきます。谷崎潤一郎は、「ポーラル」と、略さないで書いているのですが。でも、実際には「ポーラー」と日本語式に訓むことが多かったようです。

「輕いポーラーの夏服を着込んでタスカン帽を冠つた小柄の……………………。

谷崎精二著『過去』にも、そんな記述があります。谷崎精二は、谷崎潤一郎の実弟。
余談ですが。「タスカン帽」は、ストロー・ハットのこと。イタリア、トスカーナ地方のストローを使っているというので、俗に「タスカン帽」と呼ばれたものです。
兄弟でも「ポーラル」と、「ポーラー」。微妙に表現が異なってくるのですね。
どなたか戦前のポーラーを再現して頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone