東屋とアメリカン

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東屋は、見晴らし亭のことですよね。
四阿とも書きます。ともに「あづまや」と訓みます。広い庭の小さな亭。ふつうは屋根とそれを支える四本の柱だけ。庭の景色を眺めやすいように。庭を歩き疲れたなら、東屋でひと休みしたのでしょう。
その昔、鵠沼に「東屋」という旅館があったんだそうですね。正しく、「旅館東屋」。でも、たいていは「東屋」だけで通じたという。当時はそれほどに有名な宿だったらしい。もちろん、東屋と書いて「あづまや」と訓んだのですが。
旅館東屋の開業は、明治三十年のことだと伝えられています。鵠沼に東屋を開いたのは、伊東将行。伊東将行は、鵠沼海岸を拓いた人物ともいわれているのですが。
伊東将行は経営者で、実際の運営は、長谷川榮と、姉の「たか」だったそうです。長谷川榮と書いて、「えい」と訓ませたんだそうですが。
長谷川榮は、美しい人で、客あしらいにも長けていたという。長谷川榮は以前、神楽坂の料亭「吉熊」の女中頭だった人。すでにその頃から美人の噂が高かったらしい。

「鵠沼にある旅館を東屋といふ。江の島を距る十二町。只這ひ渡る磯つたひ。樓は明治二十二年の建築なり。境の閑静なる、景致秀美、魚は新鮮にして、海水浴すべし。」

明治三十一年の『風俗画報』は、そのように紹介しています。
明治三十二年に、「東屋」に滞在した文士に、斎藤緑雨が。172日の間。「東屋」に籠って原稿を書いたのであります。
斎藤緑雨の以前には、尾崎紅葉も「東屋」を利用したひとりだったという。でも、斎藤緑雨の場合は、10月23日から翌年の4月12日まで。よほど居心地が良かったのでしょうね。

あづまやに 水のおときく 藤の夕 はづしますなの 低き枕よ

明治三十四年、与謝野晶子は、『みだれ髪』の中に、そのようによんでいます。これもまた、鵠沼の東屋のことなのでしょうか。
それはともかく、当時の「東屋」は別名を、「文士宿」であったという。ただし、かなりの高級旅館でもあったようですが。
昭和の時代になって、「東屋」を贔屓にした作家に、川端康成がいます。

「……………それで仕事に追われると鎌倉の香風園や鵠沼のあづまやという格式の高い料亭旅館にへ行くということになります。」

川端秀子著『川端康成の思い出』には、そのように出ています。
川端康成が「東屋」で原稿を書いたのは、まず間違いないでしょう。
鵠沼、東屋。一世風靡したこの宿も、昭和十四年には、店を閉じているのですが。

「派手なネクタイを結んで、アメリカ風なズボンを取りあげながら、
「君の用事は、なかなか、すみそうにないね。」

川端康成著『東京の人』の一節。これは「小山」が、「朝子」に対しての科白として。
「アメリカ風なズボン」。戦後、猛烈な勢いで、アメリカン・スタイルが日本に齎されたものです。それは正しく洪水でありました。
アメリカン・スタイルとは、モダン・スタイルであったのです。イギリスのクラッシック・スタイルに対して、モダン・スタイル。
たとえばパンツに例を取りますと。フロント・プリーツの省略。裾のカフの省略。外縫目のステッチの省略。ウォッチ・ポケットの省略。
まあ、郷愁と言ってしまえばそれまでのことでもあるのですが。
でも、『東京の人』を書いた時の川端康成はたぶん旧式のズボンを穿いていたのではないでしょうか。
時には旧式のズボンも仕立てて頂きたいものですね。

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