東方見聞録とトゥイル

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東方見聞録は、十三世紀の古書ですよね。『東方見聞録』。
マルコ・ポーロが語ったものを、ルスティ・デ・ピサが文章にまとめたものと、考えられています。
マルコ・ポーロは、ヴェニスの出身で、商人でありました。お父さんの名前が、ニコロで、
ニコロ・ポーロの旅に息子のマルコが同行したというのが、本当のところでしょう。
マルコ・ポーロがニコロに連れられてヴェニスの港を発ったのは、1270年末のことだったらしい。
そして、ふたたびヴェニスに戻ってきたのが、1295年。実に二十五年の長旅だったわけですね。
マルコ・ポーロがヴェニスに帰ってから、三年後。1298年に戦乱が。マルコはこの戦争に参加して、破れ、捕虜に。1298年9月のこと。
この同じ捕虜のひとりに、たまたま物語作家のルスティケロがいたのです。そこで、
マルコはお父さんのニコロに頼んで、旅記録を取り寄せて。その旅記録をもとに語ったのが、今日の『東方見聞録』なのであります。
1295年のヴェニスでのマルコ・ポーロは、ちょっとした有名人でもありました。異国の珍しい話を聞かせてくれるので。しかし一方には、マルコ・ポーロの話を信じない人も。彼らは、「ホラ吹マルコ」と呼んだそうですが。
でも、後の研究者によれば、『東方見聞録』はほとんど当時の事実に合致していた、とのことです。

「ニコロ氏兄弟がカーン宮廷に到着するやカーンは特に謁見を許し、手厚い待遇を与えた。」

マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、そのように出ています。
これは今の蒙古のこと。「カーン」と書いてあるのは、フビライ・ハーンのことかと思われるのですが。
フビライ・ハーンはマルコ・ポーロを重用し、長期間、蒙古に滞在しています。
マルコ・ポーロは中国にも到達。
中国の「泉州」を船で出帆して、ホルムズに向うのが、1290年末のこと。

「ここは海港都市で、奢侈商品・高価な宝石・すばらしく大粒の真珠などをどっさり積みこんだインド海船が続々とやってくる港である。」

マルコ・ポーロは『東方見聞録』の中で、「泉州」をそのように説明しています。
中国の「泉州」は英語の「ザイトゥン」 Z ayt un とも呼ばれた港町。この「ザイトゥン」から後に生まれたのが、「サテン」 s at in なのです。中国の「泉州」から運ばれた生地だったので、「サテン」となったものでしょう。
英語の「サテン」は、1369年頃から用いられているそうです。ということは、マルコ・ポーロは「泉州」でサテンの源を目にしているのかも知れませんが。

『ロシア・ハウス』は私にとってのもうひとつの東方見聞録であります。壮大で、華麗で、興味尽きることがなくて。1989年に、ジョン・ル・カレが発表した物語。この中に。

「……………船乗りみたいな目がきらきらしていた。綾織のジャケット、よそ行きのブーツ、蝶ネクタイ。」

これは「マトヴェイ」という名の紳士の着こなし。
「綾織」は、トゥイル tw ill でしょうか。トゥイルは、プレイン・ウイーヴに対する言葉。
平織があって、綾織があって、繻子織があって。たいていの生地はこれらの織方で仕上げられるものです。
サージも綾織、ギャバデペィーンも綾織。トゥイルの幅は限りなく広いのです。もちろん、ウールの綾織もあれば、コットンの綾織もあります。
どなたかシルク・トゥイルでスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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