ドストエフスキーとトゥイード

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ドストエフスキーは、ロシアの文豪ですよね。
フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーは、1821年11月11日に、モスクワに生まれています。
ドストエフスキーの代表作は、『罪と罰』でしょうか。『罪と罰』は、1866年から連載がはじまっています。ドストエフスキー、四十五歳の時に。
ドストエフスキーの『罪と罰』は、明治二十年頃に、日本に来ているらしい。当時の「丸善」で、それを入れていたという。
この原書『罪と罰』をいち早く読んだのが、尾崎紅葉。尾崎紅葉は『罪と罰』を褒めて、
内田魯庵にそのことを。内田魯庵はすぐに「丸善」に行って、『罪と罰』を手に入れたという。明治二十二年頃のこと。
その後、内田魯庵は『罪と罰』を翻訳もしています。内田魯庵がやがて小説を書くようになったきっかけが、ドストエフスキーの『罪と罰』であるのは、いうまでもないでしょう。

「私たちがペテルブルクを発ったのは、一八六七年四月四日、午後五時、すっきり晴れわたった春の日だった。」

アンナ・ドストエフスカヤ著『アンナの日記』には、そのように出ています。1867年、
ドストエフスキーは、アンナと結婚。まあ、新婚旅行の意味もあったのでしょう。
ドストエフスキーは、最初、アンナとは口述筆記者として知り合っています。『賭博者』をはじめとして、アンナは多くの口述筆記を手伝っています。
ドストエフスキーはこのドイツでの旅の途中。ベルリンで、外套を買い、ズボンを註文しているのですが。当時はロシアよりもベルリンのほうが優れた服があったのでしょうか。

「二人共未だドストエフスキーを知らずにゐたが、僕の傳道によつて忽ち熱心な信徒になつた。」

萩原朔太郎は『詩人論』という随筆の中に、そのように書いています。
「二人共」とあるのは、室生犀星と、山村暮鳥。それによって、室生犀星は『ドストエフスキーの肖像』という詩をつくり、山村暮鳥はドストエフスキーの伝記を研究しはじめたとも、書いています。大正十年代のことかと思われるのですが。
大正十三年に写された萩原朔太郎の顔写真を見ると。明らかにトゥイードの上着を着ています。1924年頃の文士の間ではすでにトゥイードが識られていたものと考えてよいでしょう。
スコットランドのトゥイードが、ロンドンに伝えられたのは、1825年頃のことと、考えられています。
スコットランドの織元から、倫敦の生地屋に。この時の送状に、「トゥイル」と手書きにされていて。tw e el 。このトゥイルを倫敦の生地屋は、t w e ed と訓んだ。そのために今の
「トゥイード」の言葉が生まれたんだそうです。
どなたか完全なるトゥイードの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。

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