給料とキッド

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給料は、サラリーのことですよね。たいていは月ごとの計算ですから、月給とも呼ばれるのでしょう。
昔、『もしも月給が上がったら』。そんな題の歌が流行ったことがあるんだそうです。昭和十二年の流行歌。

🎶 もしも月給が上がったら……………。

林伊佐緒と、新橋みどりとの歌だったような記憶があります。
「もしも月給が上がったら」。奥さんはパラソルが買いたい。ご主人は、帽子と洋服が買いたい。そんな内容になっています。
「サラリー」s al ary は、1395年頃からの英語なんだとか。この「サラリー」は、ラテン語の、「サラリウム」s alār um から出ているとの説があります。
古代ロオマの時代、兵士に食塩で報酬を払うことがあって。この軍用の塩のことを、「サラリウム」と呼んだらしい。

突然ではありますが。内田百閒の月給はどのくらいだったのでしょうか。
内田百閒は作家ですから、ふつうは原稿料なり、印税なりを頂いていたのでしょう。でも、それ以外に、月給があったのですね。なぜなら、「海軍士官学校」で、ドイツ語の先生をしていたので。大正時代の話ですが。
その頃、横須賀に「海軍士官学校」があって。ここで英語の教師をしていたのが、芥川龍之介。芥川龍之介の紹介でドイツ語を教えることになったのが、内田百閒だったのです。

「それに機関学校の六百円を加へると千八百七十五円になる。」

内田百閒著『百鬼園日記帖』に、そのように書いてあります。大正八年七月三日のところに。
この日、内田百閒が学校に行ってみると、給料が上がっていて。あれこれ計算すると、合計で、1,875円に。大正八年のことですから、結構な金額だったと思われます。
内田百閒は上がった給料で、何をお買い求めになったのでしょう。

「ずぼんつりワイシャツカラ沓下……………。」

昭和八年五月一日の、『百鬼園日記帖』には、そのように出ています。これは自宅に、「近江屋」を呼んであったので。前後の文章を読む限り、「近江屋」はその時代の唐物屋だったのでしょう。
内田百閒の『百鬼園日記帖』を読んでおりますと、こんな表現も出てきます。内田百閒が路面電車に乗っていて。車内の客を観察している場面として。

「黒の上衣に縞のずぼんを穿いてキッドの深ゴム……………。」

でも、どうして「キッドの深ゴム」だと分かったのか。内田百閒自身も、同じような靴を愛用していたからなのです。
どなたか「キッドの深い靴」を作って頂けませんでしょうか。

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