ボーデンとボタンダウン・カラー

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ボーデンは、むかしアイスクリームにあったような記憶があるのですが。
「ボーデン」B od en そもそものはじまりは、1857年なんだとか。1857年に、ニュウヨーク州の、セシル・ボーデンという人物が、コンデンス・ミルクの会社を開いています。セシル・ボーデンは、1856年に、コンデンス・ミルクの特許を得ているとのことです。
コンデンス・ミルクは、「練乳」とも。いちごを食べる時に、コンデンス・ミルクを少しかけることがあります。また、珈琲を飲む時、やはりコンデンス・ミルクを加えることもあるでしょう。

「………牛乳の生汁なき時は、「コンデンスミルク」とて、ブリキの曲物に入れたる、牛乳の製したるものあり近來西洋より多く持來れる……………。」

明治五年の五月、『新聞雑誌』に、そのような記事が出ています。ということは、明治五年にははやくもコンデンス・ミルクが日本に、伝えられているのでしょう。
そのコンデンス・ミルクをどこで買うのかについても、記事は紹介しています。
「最寄の唐物屋などにて」。
明治期の唐物屋には、コンデンス・ミルクも置いてあったのでしょうね。

「鷲印のコンデンスミルク小罐と赤いゴム管の長いついたミルク罐とが常に長火鉢の傍に置かれた。」

明治四十二年に、田山花袋が発表した『妻』の一節にも、コンデンス・ミルクが出てきます。これは赤ちゃん用の飲み物として。
ここに「鷲印の」とあるのは、スイスの「イーグル」のコンデンス・ミルクだったものと思われます。
えーと、ボーデンの話でしたよね。ボーデンが出てくる短篇に、『墓地の金鳳花』があります。1965年に、アーウイン・ショオが発表した物語。

「………ボーデンは平たい金色のケースに入ったシガレットを差し出し、平たい金色のライターでお互いの煙草に火をつけた。」

これはボーデンが、ヴィクトリアに煙草をあげる場面。ヴィクトリアは、ボーデンの親友の寡婦という設定。
この物語でのボーデンは、紳士用品専門店の経営者ということになっています。店の名前は、「ボッテーガ・デル・メゾジョルノ」。ヴィクトリアはこの近くに住んでいるので、店の存在だけは知っていたのですが。店名が示すように、イタリアからの輸入品が多いらしい。
ほぼ同じ頃、アーウイン・ショオが書いた短篇に、『街の物音』があります。ここでの「街」は、ニュウヨークになっています。

「ダークグレイの服は流行に合わせた細目の仕立てで、ボタン・ダウン・カラーのオックスフォード地のワイシャツに……………。」

これはたまたまバアで隣合わせになった、シドニー・ゴスデンという男の着こなし。このゴスデンの服装描写はかなり綿密に描かれているのですが。
ボタンダウン・カラーは、アメリカ東部の選良を象徴する着こなしになっています。いや、もうそれ以上であるかも知れません。
アーウイン・ショオは、1951の夏、ふらりとパリに出かけて。それからざっと23年、パリに住んで英語で小説を書いた人物でもあります。
1966年写されたアーウイン・ショオの写真を眺めますと、ボタンダウン・カラーのシャツを着ています。たぶんパリでもボタンダウン・カラーを着ることがあったのではないでしょうか。アメリカ人であることの誇りとして。
アメリカでのボタンダウン・カラーは、1900年頃にはじまっているんだとか。1900年代のアメリカ紳士は、ハード・カラー全盛期。糊づけしないボタンダウン・カラーは、異端と言いたいほどの「最新だったでしょう。
どなたか1930年代のボタンダウン・カラーを仕立てて頂けませんでしょうか。

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