トマトは、美味しいものですよね。第一、彩りもよろしいではありませんか。レタスなんかの間にトマトが小さく切ってあったりすると、もうそれだけで、食欲がわいてきます。
トマトを日本人が好んで食べるようになったのは、昭和の時代に入ってからのことなんだそうですね。
ただ、トマトの栽培自体は明治期にすでにはじまっていたらしい。
「府下某氏ノ菜園に蕃茄ヲ植付シガ、能ク地味に適シ……………。」
明治五年『新聞雑誌』十一月、「第六十九号」にそのように出ています。
この記事には「某氏」として、生産者の名前は出ていません。が、イギリス人などは実際にこのトマトを口にしたようです。
同じ頃の『新聞雑誌』を眺めておりますと。小見出しに、『帽子が間にあはぬ』とあるのが、めに入ってきました。同じく十一月の「第六十七号」に。この記事の内容は。
大坂や神戸の洋品店で、帽子が売り切れたとの報道。もちろん、断髪令との関連なのでしょう。まあ、たまには古い新聞も開いてみるものですね。
………倶楽部にゆき、友をたづね、
紅のトマト切り、ウヰスキイの酒や呼ばむ、
北原白秋が明治四十四年に詠んだ『思ひ出』の一節に、そんな句が出てきます。
明治四十四年の「トマト」は、ずいぶんとハイカラだったのではないかと、思われます。
「宿では、板前がいろいろ気を使ってるらしいのだが、何んなものにもトマトケチャップがかかってゐる。新婚の花嫁が毎朝トマトケチャップを食はせるといふユモア小説を書きたい位だ。」
古川ロッパ著『昭和日記』に、そのように出ています。昭和十三年三月十八日、金曜日のところに。この日の古川ロッパは、関西での仕事、ある旅館に泊まっているので。
古川ロッパのこの冗談は、おそらく『コロッケの歌』にひっかけてのことでしょう。大正末期に『コロッケの歌』が流行ったという。新妻が毎日、コロッケを食べさせる内容になっています。
それはともかく、昭和十三年頃には、トマトケチャップがふんだんにあったと考えてよいでしょう。
トマトが出てくる小説に、『プラハの墓地』があります。2010年にイタリアの作家、
ウンベルト・エーコーが発表した長篇。
「………巨大なコンロで山羊のトマト煮込み、兎や牛の肉料理、エンドウ豆のピュレ……………。」
『プラハの墓地』には、繰り返し料理の記述が詳しく出てきます。物語の主人公が美食家と設定されているので。また、『プラハの墓地』には、こんな描写も出てきます。
「肋骨服は黒一色となり、ケピ帽はたちまち輝きを失って……………。」
これはドレフュスが逮捕される場面として。
文中の「肋骨服」には、「ドルマン」のルビが振ってあります。
「ドルマン」d olm an は、上着のひとつ。もともとはトルコ式の衣裳だったと考えられています。
一時期の「ドルマン」は、共のケープが添えられていて。上着の上から斜めに羽織る。その斜めに羽織った様子に似ているので、「ドルマン・スリーヴ」の呼び方が生まれたのですね。
「肋骨服」としてのドルマン・ジャケットをどなたか仕立てて頂けませんでしょうか。