葛飾北斎は、日本の絵師ですよね。『富嶽三十八景』は北斎の代表作と言えるでしょう
ことに『神奈川沖浪裏』はもっともよく識られた一枚。大浪に翻弄される小舟。その背景に富士の山が描かれている構図。大胆この上もない発想であります。
葛飾北斎は宝暦十年(1760年)九月二十三日。江戸、本所に生まれています。今の墨田川の近くに。子供のときの名前は、時太郎。
安永三年には、十五歳で、板木屋の弟子になっています。板木屋はその時代の浮世絵を刷る工房だったのです。
その後、浮世絵師、勝川春章の門をくぐっています。1778年、北斎十九の時でありました。その翌年に、「勝川春朗」の名前を与えられています。北斎は若くして絵の才能があったものと思われます。
明治二十六年に、飯島虚心は『葛飾北斎伝』を著しているのですが。北斎没後四十年のこと。それでも北斎の調査には苦労があったそうですね。ひとことで言って、北斎は奇人変人。謎に満ちた人生を送っています。
とにかく名前を変えること三十数回。引っ越しの回数、九十三回というですから。
寛永十年の春。オランダのカピタン、ヘンミイから絵の注文があって。その頃、江戸本國町に「長崎屋」という宿があって、異人が泊れる宿。ここにカピタンが来て、江戸庶民の一生を絵にして欲しい。
カピタンのヘンミイには、医者のレッケも同行していて、「私も欲しい」。画料は、百五十両。
北斎が絵を一式仕上げて、百五十両を。ところが、医者のレッケは、画料を半額にしてもらいたい。そこで北斎は絵を持ちか帰った。その後、カピタンはそのことを知って、もう一式を百五十両で買ったという。
「日本の藝術家中泰世の鑑賞家により其の研究批判の精細を極めたるもの画狂人葛飾北斎に如くものあらんや。」
永井荷風が大正二年に発表した随筆『泰世人の観たる葛飾北斎』の中に、そのように書いてあります。
「画狂人」は、北斎が自分でつけた画号のひとつなのですが。
当時の将軍、徳川家斉のもとにも、北斎の名前は聞こえてきて。ある時、鷹狩の途中、浅草の伝法院に、北斎を招いて、「一筆描くがよい」。
すると北斎はとくに横長の紙を用意して、全部を藍色に塗って。鶏の足に朱を塗って、その上を歩かせた。それで、ひと言。
「龍田川の紅葉でございます。」
これには将軍も度肝を抜かれたという。
文化元年(1894年)四月十三日。護国寺のご開帳の日に、北斎は達磨の絵を描いたことがあります。
百二十畳ほどの大きさの紙を用意して、樽に墨汁、箒を筆にして。見物客には描いても描いても、何が何だかわからない。最後に吊り上げてみると、大達磨の絵になっていたという。
そうかと思えば、ある時に、米粒に二羽の雀が遊ぶ様子を描いたとも。
葛飾北斎は嘉永二年(1849年)四月十八日に、世を去っています。この時、九十歳。
「あと一年、生きることができたなら、本物の絵師になれたものを。」
そのように呟いたそうですね。
葛飾北斎が出てくる『日記』に、『ゴンクール日記』があります。
「今晩のビングの家での日本研究会で林は北斎の「百花仙」のための五十七図一揃いを皆に見せてくれた。」
1885年12月28日、月曜日の『日記』に、そのように出ています。
ここでの「林」は、当時巴里で美術商だった林 忠正のこと。また、『ゴンクール日記』には、こんな記述も出てきます。
「あの五段肩被いのダーク色豪華キャリック(ボックス・コート)をあつらえておいた。」
ここでの「キャリック」は、「カリック」carrick のことかと思われます。
十九世紀に流行した、ケープ五段重ねの外套。もともとは、「カリオール」の御者が着ていたコート。カリオールは二輪馬車のこと。
どなたかカリックを仕立てて頂けませんでしょうか。