オー・ヘンリーは、アメリアの作家ですよね。
オー・ヘンリーは筆名。本名は、ウイリアム・シドニー・ポーター。
1862年9月11日に、生まれています。
オー・ヘンリーは謎めいたところの多い作家でもありまして。
ペンネイムの由来も定かではありません。ひとつの説ではありますが。
オー・ヘンリーはノラ猫を呼ぶ時、いつも「おーい、ヘンリー」と呼んでいた。この自分の口癖を筆名にしたんだとか。
オー・ヘンリーを日本ではやく紹介した雑誌に、『新青年』があります。
大正九年の「秋季増大号」に、『運命の道』が翻訳されているのですね。
『新青年』の創刊は、大正九年の一月号。ここでは主にミステリが主になっているのですが。
オー・ヘンリーの代表作に、『最後の一葉』があるのは、ご存じの通り。
『最後の一葉』も、『新青年』二月号に出ています。
浅野玄府の日本語訳で。
「そんなわけで、この古い変梃なグリーニッチ・ヴィレッジには画家連中がすぐに集まつて来て、北向きの窓と十八世紀式の破風とオランダ風の屋根裏部屋と安い部屋代とを漁り求めるやうになつた。」
これはもちろん『最後の一葉』の導入部分ですね。
『新青年』はなにも翻訳物ばかりではなく、おしゃれの頁もありました。題して、『ヴォガンヴォグ』。このコラムは最初、中村進次郎の担当だった記憶があります。
中村進次郎の後を受けて、長谷川修二が書いていた時代もあるようですね。
たとえば、昭和八年『新青年』八月号には、『ステッキの話』が出ています。担当は、長谷川修二。
「高い奴ならフル・バーク斑入りの籘に犀の角のハンドルのついたものでダンヒル會社の十八號と銘うつた品。」
ざっとそんなふうに、長谷川修二は蘊蓄を傾けています。
オー・ヘンリーが世を去ったのは、1910年6月5日のこと。四十七歳でありました。
オー・ヘンリーが人生を終えたのと、軌を一にして登場したのが、ノーマン・ロックウエル。
ノーマン・ロックウエルは1894年2月3日、ニュウヨークに生まれています。
もしかすれば、ノーマン・ロックウエルはニュウヨークの街角で、オー・ヘンリーに出会っているかも知れませんね。
ノーマン・ロックウエルが1910年代から、絵筆を採るようになったのは、間違いないところです。
ノーマン・ロックウエルが1929年に描いた絵に、『魚釣り』があります。
この『魚釣り』は1929年『サタデイ・イヴニング・ポスト』8月30日号の表紙を飾った一枚なのですね。
『魚釣り』は題名の通り、紳士と少年とが、真剣に魚釣りを愉しんでいる様子が描かれています。
紳士は、パナマ帽。それも古典的なオプティモ型のパナマを。
おしゃれ語の「オプティモ」は、ラテン語の「オプティムス」optimus と関係があります。その意味は、「最高の」。
その昔。パナマ港からパナマ帽を輸出する時。重ねて積んだ。重ねて積むために、縦に二つ折りにした。
目的の港についてみると、縦に筋が入っていて。
「これもまた、佳いではないか」というので、「オプティムス」と命名。それがいつの間にか「オプティモ」と呼ばれるようになったものです。
どなたか最高のパナマ帽作って頂けませんでしょうか。