モンパルナスはいかにも巴里らしい場所ですよね。モンパルナスといい、モンマルトルといい。頭に、「モン」がつく。紋付の地名。どうして「モン」かというと。昔はこのあたり、山だった。
山とは大げさにしても、丘だった。その丘を崩して、町に。で、モンマルトルであり、モンパルナスと呼ばれるのでしょう。モンパルナスゆかりのひとりに、藤田嗣治がいます。若き日の藤田嗣治はモンパルナスに住み、モンパルナスを彷徨し、モンパルナス描いた。
モンパルナスの藤田嗣治の住まいの近くには、モディリアーニーやスーティンがいた。藤田はモディリアーニーを「親友」と呼んでいます。そのモンパルナスの藤田嗣治を訪ねたのが、薩摩治郎八。
「私が藤田と知りあったのは、一九二二年だった。藤田のドランブル街のアトリエに訪ねて行った。アトリエといってもガレージで向かいあいが台所になっていた。英国スタイルの私を見て、彼は心よく迎えてくれた。たしかドランブル街の4番地だったと思う。」
『猫と女とモンパルナス』の中に、薩摩治郎八はそのように書いています。
「藤田嗣治君の如きは、画壇の位置から云っても、その代表者だろう。」
獅子文六著『モンパルナス界隈』にも、そのように出ています。当時の、モンパルナスの芸術家がいかに奇抜な恰好をするかについて述べたところで。
獅子文六こと、岩田豊雄は1922年に、巴里に遊学しています。ちょうど薩摩治郎八が藤田嗣治に会っていた頃の話なんですね。
獅子文六の小説に、『娘と私』があります。小説仕立てではありますが、すべてほんとうの話。感涙なしに読むことできません。名作。この中に。
「私は、自分がモーニング・コートを着てるのも忘れて、彼女と山へでも遊びにいくのではないかと、思われた。」
お嬢さんを結婚式場に伴う場面。名文ですね。父親の、葛藤。にくらしいほどの、名文。
このモーニング・コートは、若き日の岩田豊雄が巴里で、清水の舞台から飛び降りて、仕立たモーニング・コート。獅子文六はこのモーニングを最後まで着通したという。佳い仕立ては長持ちするのでしょうか。