梶井基次郎は、大正の終りから昭和のはじめにかけて活躍した作家ですよね。
代表作は、大正十四年に発表した『檸檬』でしょうか。
梶井基次郎は、昭和七年、三十一歳で世を去っています。
梶井基次郎と仲良しだったのが、川端康成。川端康成は、明治三十二年の生まれ。
梶井基次郎は、明治三十四年の生まれ。二つほど川端康成がお兄さんだったことになるでしょうか。
川端康成の名作に、『伊豆の踊子』があります。『伊豆の踊子』の校正を手伝ったのが、梶井基次郎。
「………梶井君の細かい注意にも、私はどうでもいいと答へた。しかし、私がさう答えたのは、校正といふことを離れて、自分の作品が裸にされた恥しさのためであつた。」
川端康成は、昭和九年九月に書いた『梶井基次郎』という随筆のなかに、そのように書いています。
ここからも想像できるように、梶井基次郎の『伊豆の踊子』への校正はまことに細かくて、送り仮名の揃え方についても、熟考したそうですね。
梶井基次郎が、『伊豆の踊子』の校正をしたのは、伊豆の宿でのこと。
では、梶井基次郎は川端康成をどんなふうに思っていたのか。
「…………時々川端氏には會ふが藝術のこと、話まるでしない位川端氏は圍碁に凝つてゐる。」
昭和二年二月一日付の手紙に、梶井基次郎はそのように書いています。
宛先は、飯島 正。飯島 正は、後に映画評論家になった人物。映画評論家のはしりともいえるお方。
梶井基次郎はこの飯島 正宛の手紙を、伊豆、湯ヶ島の、「湯川屋」から投函しています。
この「湯川屋」は、川端康成が紹介してくれた宿だったのですが。
梶井基次郎が、大正十四年に発表した小説に、『城のある町にて』があります。この中に。
「………カンカン帽子を冠つてゐるのが、まるで栓をはめたやうに見える。」
と、書いています。梶井基次郎は、「カンカン帽子」と。
大正末期には、「カンカン帽子」の表現があったのでしょうか。
「………そのとき校門の前では青成瓢箪吉の父瓢太郎が、古いカンカン帽をあみだにかぶつて……………………。」
尾崎士郎が昭和八年に発表した『人生劇場』の一節。
ここでは、「カンカン帽」になっています。
昭和八年に、尾崎士郎の『人生劇場』が発表された時に激賞したのが、川端康成だったのですね。
昭和二十九年に、『人生劇場』が映画化された時。尾崎士郎は、宇野重吉と顔を合わせています。そのときの尾崎士郎は手に、パナマ帽を持っています。オプティモア型なので、パナマと分かるのですが。
カンカン帽子かカンカン帽かという以前に。昭和のはじめまでの、帽子業界での名称としては、「一文字」があったという。カンカン帽を横から見ると、「一文字」に見えたからでしょうか。
大正末期から昭和初期にかけて、カンカン帽は大いに流行したのです。ただし、和洋折衷として。つまり、着物の上にカンカン帽をかぶったのであります。
別言いたしますと、着物にカンカン帽を合わせるのが、流行った。いや、流行り過ぎた。その反動として、着物にカンカン帽は古い。と、こうなったのです。
今、カンカン帽にあまり人気がないのは、そのためではないでしょうか。
どなたか今のサマー・スーツに合うカンカン帽を作って頂けませんでしょうか。