紅茶は、ティーのことですよね。ティー t e a がもともとは、中國の「チャ」から来ているのは、言うまでもありません。フランスの「テ」thé も同じことであります。
フランスには、1635年頃に紅茶が伝えられたという。イギリスには、1650年頃に。
英語の「ティー」は、ほんとうは「ブラック・ティー」の略なんですってね。「黒い茶」。
日本が「紅い茶」なら、イギリスは「黒い茶」。言葉とはやはり正しいものですねえ。
イギリスの「黒い茶」はとても飲めないので、ミルクを添える。と、たちまち甘露となるのですから、不思議なものであります。
紅茶がお好きだったお方に、永井荷風が。とにかく『紅茶の後』と題する文章をお書きになっているくらいですから。どうして『紅茶の後』なのか。
「紅茶の後」とは静な日の昼過ぎ、紙よりも薄い支那焼の器に味ふ暖国の茶の一杯に、いささかのコニヤツク酒をまぜ、或はまた檸檬の一そぎを浮べさせて、殊更に刺激の薫りを強くし、まどろみ勝ちなる心を呼び覚して、とりとめも無き事を書くというふ意味である。」
荷風は、明治四十四年十一月に、そのように書いています。
荷風よりも前、漱石も紅茶がお好みであったらしい。
ある時、百閒が漱石のお宅を訪ねたら、紅茶が出て。どうもそれが特別上等の紅茶だったらしくて。漱石は百閒に、
その紅茶の味はどうだ?と、しきりに訊く。
百閒は返答に困ったと、なにかに書いていました。今、その百閒の本を探しているのですが、出てきません。
「やがて、紅茶を呑んで仕舞つて、例の通り讀書に取りかかつた。」
明治四十二年に漱石が発表した『それから』にも、「紅茶」が出てきます。これは主人公の
「代助」の朝の習慣として。私にはどうしても、この場合、代助すなわち漱石と想ってしまうのですが。
そしてまた、『それから』にはこんな場面も出てきます。
「代助は二三の唐物屋を冷かして、入用の品を調へた。其中に、比較的高い香水があつた。」
「代助」は、この「高い香水」を買っています。つまりは舶来の香水を。少し後のところに。
「………一旦詰め込んだ香水の壜を取り出して……………………。」
と、書いていますから。
要するに「代助」は舶来上等の香水を遣った。まず間違いないでしょう。
「………山崎塊一の製する香水は、舶來に劣らぬ良品の由にて……………………。」
明治十一年『東京曙新聞』五月二日付の記事に、そのように出ています。
見出しは、「内國製香水を 宮内省に御買上」と、なっているのですが。
つまり御所では、明治十一年からは、国際香水を用いるようになったものでしょう。
どなたか明治十一年頃の古典的な香水を作って頂けませんでしょうか。