麻布とアルスターレット

麻布は、東京の港区にある地名ですよね。
麻布はどこに出るにも便利。また、住みやすい町でもあります。麻布に暮してみたいと思う人は少なくないでしょう。
麻の布と書いて「あざぶ」と訓みますね。昔はこの辺り一帯に、麻の木が植っていたんだそうです。麻の木からは、繊維が。それで麻の布を織った。それで「麻布」の名前になったんだとか。
「麻布で気が知れない」。あの人何を考えているのか。そんな時、昔の人は「麻布で気が知れない」なんてことを言ったんだそうですね。江戸時代に。
「麻布で気が知れない」の語源説にもいくつかあるみたいですが。そのひとつに。「六本木説」があります。「六本木」とは言うけれど、どこに六本の木があるのか、分からない。それで、「木が知れない」になったんだとか。
それからもうひとつは、「黄色説」。近くには、「赤坂」があり、「青山」があり、「白銀」があり、「目黒」もある。でも、黄色がない。それで「黄がない」なったのだとも。
小山内薫が、昭和十年に麻布の昔話を書いています。題して『芝、麻布』。

「麻布でもう一つ想い出すのは、竜土軒のことである。」

小山内薫は、『芝、麻布』をそのうちに書きはじめています。この「竜土軒」は当時あった西洋料理店のこと。

「竜土軒の主人は八字髯を生やした品の好い男で、耳が少し遠かった。細君は赤坂の八百勘で女中をしていた人で、始終粋な丸髷に結っていた。」

小山内薫はそんなふうにも書いてあります。小山内薫にとって、この竜土軒がなぜ特別だったのか。
その時代の「竜土軒」では、定期的に文士の会が開かれていたので。國木田獨歩、島崎藤村、柳田國男、田山花袋などの文士が、会の中心だったという。

「殊に私は、麻布などといふところで開かれる即売会のことなどは、全然知らなかったので、それだけに何か面白さうで、お供をして行くことに興味が持たれた。」

森 銑三は1975年に発表した随筆『思い出すことども』の中に、そのように書いてあります。おそらく昭和のはじめ頃の話なのでしょう。
当時、森 銑三は井上通泰先生に師事していて。その井上先生が古書即売会のことを教えてくれて。先生のお供で麻布の即売会に行った話なのです。
麻布の即売会では、偶然にも宮武外骨が客として来ているのに、出会ったとも。

話は変わりますが。麻布に三百坪の売地がありましてね。正確には、三百三十坪。もっとも明治二十二年のことなのですが。
明治二十二年「東京朝日新聞」十月二十五日付の広告に出ています。むろん更地ではなくて、ざっと百坪の屋敷が建っていて。蔵や物置なども。その頃の住所ですと、麻布区麻布櫻田町十九番地に。これは売主が直接に出している広告として。
また、明治二十二年「東京朝日新聞」十一月三日付の広告には。「豊橋屋鹿之助」の広告も出ています。
これは当時、芝区明け舟町十九番地にあった西洋服店の広告。

「背廣、モーニングコート、ヲパーコート、アルスターコート、廻し合羽」

そのような一例が出ています。ここでの「ヲパーコート」は、オーヴァコートのことかと思われるのですが。
明治二十二年の「豊橋屋」では、アルスターコートを仕立ててもらうことができたのでしょう。
アルスターulster に対して、「アルスターレット」ulsterette もあります。軽量アルスター。昔のアルスターはそれほどに重量だったので。
どなたかアルスタレットを仕立てて頂けませんでしょうか。