ティー(tea)

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至福一杯

ティーは紅茶のことである。「ティー」tea の意味は広い。ことに「紅茶」のみを指すには、「ブラック・ティー」 black tea とも言う。「紅い茶」なのか「黒い茶」なのか。これは茶葉の色を見てブラックといい、それをカップに注いだ色を見て「紅い」と表現するのである。
ティーはイギリス人の活力源である。イギリス人はなにかにつけてティーを飲む。イギリス人がティーによって生きていることは、間違いない。もしかすればイギリス人の血管にはティーが流れているのではないか、と思えるほどである。仮にイギリス人の生活からティーを差し引くと、おそらくイギリス人ではなくなるだろう。
イギリスのティーも、日本の茶ももとを正せば同じものである。茶はツバキ科の植物。その植物の葉を発酵させないのか、発酵させるのかによって、茶になり、ティーになるわけである。
茶は建久二年 ( 1191年 ) に、僧、栄西によって伝えられた。それは一種の薬としてであった。
ヨーロッパにティーが齎されたのは、十六世紀のことと考えられている。ごく単純に比較するなら、teaよりも cha のほうが古いということになる。ただ、ヨーロッパでの teaも最初は薬代りだったのだ。つまりcha にも tea にも薬効があるとされたのである。
英国人におけるティーの記録は、1615年に遡る。それは長崎、平戸に駐在の東インド会社のヴィッカムが、同じく東インド会社、マカオ駐在のイートンに充てた手紙の中に出てくる。
「最上等のティーを一壺送られたし……」
ただしここでの「ティー」の綴りは、chaw になっているのだが。
東インド会社といえば、1669年の手紙がある。それはイギリス本国から、ジャワ駐在員に充てたものである。
「100ポンド以上のティーを送られたい。」
この手紙には反応があって、143ポンド分のティーが送られてきた。これこそ英国に正式に輸入された紅茶であったと、考えられている。この143ポンドのうち、22ポンド分は、キャサリン王妃に献上されたとのことである。
それより前の1662年の春。ポルトガルの王女、キャサリン・ブラガンザが英国王、チャールズ二世に嫁ぐ。この時のお輿入れの品々のなかに、紅茶があったのだ。これを契機に英国上流階級の間でティーが流行ることになったという。

「今日、私は一杯のティーを求めた。私はこれまでティーを飲んだことがなかった。」

サミュエル・ピープスの『日記』、1661年3月25日のところには、そのように記されている。つまり1660年代のティーはまだ珍しいものであったことが窺われるに違いない。ところが。

「帰宅すると、妻がティーを淹れていた。薬剤師の、ペリングが妻の風邪や鼻水に効くと教えてくれた飲物である。」

同じくサミュエル・ピープスの『日記』の一節。これは1667年6月28日のところに出ている。ここでもティーが薬草に近いものであったことが分かるだろう。もちろん時代とともにティーはイギリスに浸透して、欠かせない嗜好品となってゆくのである。

「私がデーヴィス氏の奥の居間に坐り込み、主人及びデーヴィス夫人とお茶を飲み終った所へ、ジョンスンがひょっこり這入って来た。」

ボズウエル著『サミュエル・ジョンスン伝』には、そのように書かれている。これはボズウエルがはじめてジョンソンに会う場面。場所は、コヴェントガーデン、ラッセル街。時は、1763年5月16日 ( 月 ) のこと。ここに出てくる「デーヴィス」は俳優でもあり、書店の経営者でもあった人物。客のひとりであるボズウエルにティーを出していたのである。
もしこの時、ボズウエルをゆっくりティーを飲んでいなければ、ジョンソン博士に会うこともなかったかも知れない。もし会っていなければ、あの浩瀚なる『サミュエル・ジョンスン伝』も、書かれることがなかったかも知れない。一杯の紅茶の、なんと偉大なことであることか。

「≪一杯のよいお茶≫は (中略 ) 何か厄介なことにはまりこんでどうしていいかわからない時や、何か強い感動のために心も凍るような思いがする時に、何よりも先に求め、欲しがり、待つところのものである。」

トニ・マイエール著『イギリス人の生活』の一文である。イギリス人にとっての一杯のティーが、心の薬であることがよく分かる文章であろう。

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