パナマ・ハット(panama hat)

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真夏の昼の夢帽子

パナマ・ハットは、パナマ帽のことである。また単に「パナマ」だけでも通じたりもする。
ただしパナマ・ハットがパナマで作られるわけではない。パナマ帽は、主にエクアドルで編まれる帽子なのだ。エクアドルに産する「パナマ・ハット・プラント(パナマ草) の繊維を使って仕上げるので、パナマ・ハットと呼ばれる。
一説に、パナマ・ハットはパナマ運河と関係があるという。あるいはまた、パナマ港から輸出されたので、その名前になったとも、諸説がある。
その昔。パナマ帽が船積みされたことは間違いない。パナマ帽であろうとなかろうと、帽子は嵩張るもの。そこでパナマを縦に二つ折りにして、重ねた。そして目的地に着いてから、元通りに左右に開いて、形を整えた。しかし中央の折線は残った。これが今の、「オプティモ・スタイル」なのだ。オプティモ optimo は、ラテン語で「最上」の意味がある。おそらくこれはクラウンの、「上の線」を指したものではないだろうか。いずれにしても、今なおオプティモはパナマの中でのクラッシック・スタイルとされるのである。

「彼らは皆、パナマ・ストロー・ハットをかぶっていた。」

1833年の『単純なるピーター』の一節。著者は、フレデリック・マリアット。フレデリック・マリアットは、英国の海洋小説家。1833年においても「パナマ・ストロー・ハット」の表現はあったものと思われる。

「スペンサー博士はゆったりとしたグレイのコートを着、竹のステッキを持ち、大きなパナマ・ハットをかぶって、ホールに入ってきた。」

1856年刊の『デイジー・チェイン』の一文。著者は、シャルロット・マリイ・ヤング。ヤングは、イギリスの児童文学者。おそらくは1856年に、パナマ帽を被る人物がいたのであろう。

「パナマ・ハットとはごく細い繊維で編んだ帽子のことである。それはカルルドヴィカ・パルマータの学名を持つ樹木の、扇状の葉から得られるものである。」

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1858年の、『貿易辞典』の解説文である。編者は、シモンズとなっている。パナマ・ハットを輸入する商人のためでもあったのだろう。
カルルドヴィカ・パルマータ carludovica palmata は、「パナマ草」のことであり、ヒーピーハーパー jipijapa のことである。パナマ草から採った繊維が、ヒーピーハーパーなのだ。ことにその若葉が良いとされる。より細い繊維が得られるからだ。
1915年度版「ブルックス・ブラザーズ」のカタログ上にも、数点のパナマ・ハットが紹介されている。その内の、「サウス・アメリカン・パナマ」と記されたものが、真正のパナマ帽であったのだろう。それはともかく1910年代のアメリカではすでに、パナマ・ハットが好まれるようになっていたものと思われる。

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少し時代は戻るのだが、1912年に発表された小説に、『ヴェニスに死す』がある。余談ではあるが、作者、トーマス・マンは1911年の夏、ヴェニスに赴いている。そして主人公、グスタフ・フォン・アッシェンバッハの風貌をマーラーに借りているのも、事実である。

「赤いネクタイに、ひどく縁のまくれ上がったパナマ帽、最近流行のクリーム色の夏服という出立ちの一人が……」

これはトリエステからヴェニスへと向う船中での相客の姿。アッシェンバッハ自身の服装については詳述されていない。ただ、1911年頃、トーマス・マンがパナマ・ハットを認識していたことは間違いない。
『ベニスに死す』として、映画化されるのは1971年のことである。ルキノ・ヴィスコンティ監督。アッシェンバッハに扮するのは、ダーク・ボガード。映画でのアッシェンバッハは白麻服にパナマ・ハットを被っている。衣裳を担当したのは、時代考証に一家言あるピエロ・トージ。
1910年代はじめ、トーマス・マンが、グスタフ・マーラーが、パナマ・ハットを被る可能性はあったのだ。
映画『ベニスに死す』は、パナマ・ハットを見直すきっかけにもなったと考えられている。

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