「捨てる」は、今、ちょっとした流行りなんだそうですね。たとえば、断捨離だとか。要らないものはさっさと捨てて、簡素この上もない暮しにひたる。いいですねえ。憧れます。
物は捨てようと思えば、捨てられる。でも、捨てるに捨てられないのが、想い。想いばかりは捨てたつもりでも、まだどっかに遺っていたりするものですね。
岡鹿之助がはじめて、藤田嗣治に会った時。それは、1925年、巴里でのこと。もちろん、岡鹿之助が、藤田嗣治の自宅を訪ねる。その頃、フジタのアトリエは、アンリ・マルタン通りの、高級住宅街にあって。
「藤田さんの家の前に来ると、帽子を目深にかぶり、マフラーの片方も端をぱっとうしろへたらして、乗馬服で、ムチを持った男がさっそうと出て来た。どう見てもフランス人だ。このフランス人が、私をじっと見ている。」
岡鹿之助は、『見事な伊達男』という随筆の中で、そんなふうに語っています。もちろん、この「フランス人」がフジタその人だったのですが。
岡鹿之助は、フジタに言った。
「過去は捨てるつもりです」。これに対するフジタのひと言。
「生意気云うな。捨てるほどの過去もないくせに」
同じく『見事な伊達男』に出ている話なのですが。
話は、少し、飛びます。1930年11月に。この時、フジタはニューヨークの「ラインハルト画廊」で個展を開いています。
1930年11月。フジタは船で、ニューヨークへ。その甲板で写された一枚の写真が遺っています。モノクロームの写真。スーツに縞柄のネクタイを結んで。それは大胆な右下がりの、ストライプ柄になっています。
1930年。四十四歳の、フジタがストライプのタイを結んだのは、まず間違いないでしょう。
私も右下がりの縞のネクタイを、持っています。それがなかなか、捨てられないのですが。