鼈甲は、亀の甲羅ですよね。鼈甲はむかしからよく装身具にも用いられてものです。たとえば、鼈甲の簪だとか。もちろん、鼈甲の笄なども多くあったらしい。
櫛、笄、簪は、日本髪における三種の神器だったものです。簪は、「髪挿し」から来ているようです。また、笄は、「髪掻き」の訛ったものと考えられているとのこと。
簪はまあ、一本の装飾的な棒で、ふだんは髪に挿しておいて。時場合によっては、簪が頭を掻いた。それで、「笄」なんだという。
櫛、笄、簪だけでなく、帯留などにも鼈甲製がありましたね。
男物なら、鼈甲の眼鏡。今はたいていプラスチックで代用されますが、ひと時代までは鼈甲の眼鏡が少なくなかった。鼈甲縁眼鏡の愛用者をひとりだけ挙げますと。一萬田尚登でしょうか。戦後間もなくの、日本銀行総裁。一萬田尚登はあまりにも切れる人物だったので、誰もが「法王」の名で呼んだと伝えられています。一萬田尚登が愛用したのが、鼈甲縁の眼鏡。
ほとんど斑のない、飴色の、透明に近い眼鏡がお好きだったようです。「斑」( ふ ) は鼈甲用語で、黒い斑点のこと。この斑の少ない鼈甲は、特に高級品とされます。
では、なぜ眼鏡に鼈甲なのか。適度に堅く、適度に柔らかい素材だから。高温と高圧をかけると、細工が自在だったからです。
ところが今いうところの「鼈甲」は鼈甲ではないのです。ほんとうは海亀の中でも「玳瑁」が珍重されたのです。が、江戸末期になって、「玳瑁」が輸入禁止に。余談ですが、玳瑁と書いて、「たいまい」と訓みます。
玳瑁が禁止になったので、江戸末期に「鼈甲」と言いかえた。仮にそれが実際には玳瑁であったとしても、「いや、これは鼈甲でございまして」と、お上に対して言い訳したのであります。
そのために現在での「玳瑁」は半ば忘れられているのです。一方、もしそれが本物の玳瑁であったとしても、「鼈甲」として通用されるのであります。
鼈甲が出てくる小説に、『銀座二十四帖』があります。井上友次郎が、昭和三十一年に発表した物語。
「京極克巳は、見たところ四十がらみで、やや小肥りの赤ら顔には、ボストン型のべツコウのメガネをかけているが…………………。」
この「べツコウ」も、たぶん玳瑁だろうと、思われます。では、「京極克巳」はどんな服装なのか。
「その堂々たる仕立ておろしのベロアの外套は、どこからみても、少壮実業家の風格はうしなわない。」
ヴェロアは、ヴェルヴェットの一種。ヴェルヴェットよりもさらに毛足の長い生地のこと。「ヴェロア仕上げ」などとも。「ヴェロア仕上げ」と考えるなら、シルクとは限らないわけで。もちろんウール地の「ヴェロア仕上げ」もあったでしょう。
帽子に用いられるフェルトにも「ヴェロア仕上げ」はあります。もちろん高級品。
そうです、ヴェロアのソフト帽に、鼈甲の眼鏡はよく似合いますよ。