フランスとブレトン・ベレエ

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone

フランスは、国の名前ですよね。ジャパンがあり、スペインがあるように、フランスがあります。
フランス人なら、「フレンチ」でしょうか。英語の辞書を開くと。「フレンチ………」ではじまる言葉がたくさん並んでいます。これはフランス語での、「………アングレ」に似て、ふたつの国がいかに近いのかを物語ってもいます。
日本ではフランスはいつも憧れの国でありました。

フランスへ行きたしと思へど  フランスはあまりに遠し
せめて新しき背廣を着て  旅に出ん

萩原朔太郎は、詩の中にそんなふうに詠んでいます。
「新しき背廣」も着たことでしょうが、実際にフランスに旅したお方に、黒田清輝が。
明治十七年二月二日に、横濱港を発っています。黒田清輝、十八歳の時に。
お父さんの、黒田清綱は法律を学ばせるつもりだったのですが。巴里に着いてから、絵に興味が湧いてきて。
明治十九年。お父さんに手紙を書いて、画家を目指すことを報告しています。黒田清輝、
二十歳の時に。
巴里滞在中の清輝は、ずいぶんと旅をしても。フランス郊外はもちろん、ベルギーやオランダにも足を伸ばしたり。
明治二十七年には、『朝妝』が展覧会で入賞となって。
同じ年の六月巴里を発って、アメリカを見てから、帰国。七月に。この時の黒田清輝がかぶっていたのが、ブレトン・ベレエなのですね。
明治三十年に、黒田清輝は『自画像』を描いていて。この絵の中で清輝は、ブレトン・ベレエをかぶっているのです。黒田清輝はよほどブレトン・ベレエに愛着があったのでしょう。
あるいはフランスでの絵のモデルからの贈物だったのかも知れませんが。

「………鎌倉の三ツ橋で昼めしを食ひ腹のよくなつたのや…………………。」

黒田清輝は明治三十年三月七日、日曜日の日記に、そのように書いています。
黒田清輝は三月六日から友だち三人と、藤澤へ。藤澤で泊まって、翌日に江ノ島。江ノ島から鎌倉へ回って、昼食を。
この時の黒田清輝もたぶん、ブレトン・ベレエをかぶっていたのでしょう。
ブレトン・ベレエは、フランス、ブルターニュ地方の民族帽。バスク・ベレエに較べて、一回り大きいのが特徴のものです。
クラウンが大きいというは、それだけ多彩なかぶり方もできるわけで、ベレエ好きに人気があるのも、当然でしょう。
どなたか本格的なブレトン・ベレエを作って頂けませんでしょうか。

Share on FacebookTweet about this on TwitterShare on Google+Email this to someone