ポールは、男の人の名前にもありますよね。ふつう、paul と書いて「ポール」と訓むようですが。
ポールが女の子になりますと、ポーラでしょうか。むかし、『ポール・アンド・ポーラ』という曲があったような記憶があります。
フランスの画家でポールといえば、ポール・セザンヌでしょうか。ポール・セザンヌは、多彩な絵師でありましたね。風景画をはじめとして、静物画、人物画に至るまで広く傑作を遺しています。
ポール・セザンヌは、1839年1月19日、南フランスのエクサン・プロヴァンスに生まれています。お父さんはイタリア系フランス人で、帽子屋を開いていたという。
クロード・モネは1840年11月14日の生まれ。セザンヌは、モネのひとつお兄さんだった計算になります。
1852年、セザンヌが十三歳の時、エミール・ゾラが巴里から転校して来て、級友になっています。
ゼザンヌが巴里に出るのは、1861年のこと。二十三歳の時でありました。でも、セザンヌの絵が認められるのは、晩年になってから。その意味では遅咲きの絵師だったのかも知れませんが。
セザンヌを日本にはじめて紹介したのは、有島生馬だと考えられています。有島生馬は、画家。作家、有島武郎の弟。やはり作家の里見 とんの実兄。
1907年、有島生馬は留学中の巴里で、「セザンヌ回顧展」を観ているのです。それというのも、セザンヌは1906年10月23日、六十七歳で世を去っていますから。
1910年、有島生馬は日本に帰ってから、『画家ポール・セザンヌ』を、雑誌『白樺』に発表。これは三回に連載だったのですが。かなり長文の論文になっています。
有島生馬はよほどセザンヌに心揺さぶられるところがあったのでしょうね。
有島生馬の『画家ポール・セザンヌ』の最後の一行は、このようになっています。
「吾がセザンヌなりと答えたと云ふ。」
以前、ロシアの美術評論家が、ジヴェルニーにクロード・モネを訪ねて、モネの絵を絶賛したことがあったそうです。モネはその評論家の言葉が終ると、静かに言った。
「その褒め言葉のすべては私ではなく、セザンヌにこそあてはまるものです。」
「セザンヌより偉大な画家は多分存在しないであらう。」
大岡昇平は、昭和三年に発表した随筆、『セザンヌ』の中に、そのように書いてあります。
「一九八三年の夏、セザンヌの故郷、エクサンプロヴァンスに行た私は、彼がまだ学校の生徒だったころ、親友のエミール・ゾラたちといっしょに水浴びしたというアルク川のそばにも行ってみた。」
音楽評論家の吉田秀和は『《水浴する女たち》』の中に、そのように書いてあります。
吉田秀和もセザンヌを讃えたお方だったのでしょう。
「彼も人並みに外套を着、ソフトをかぶってゐる。」
小林秀雄は、1952年に発表した随筆『セザンヌの自画像』の中に、そのように書いています。これはたぶん、セザンヌが1891年に描いた『帽子をかぶった自画像』のことではないかと思われます。
小林秀雄は、このセザンヌの自画像を、当時あった鎌倉の近代美術館で観ているのです。小林秀雄はセザンヌの絵を観た後、美術館の庭で、珈琲を飲んでいるのですが。
ポールが出てくる小説に、『地獄の静かな夜』があります。2001年に、A・J・クィネルが発表した物語。
「ありがとう、ポール。わたしはジェニー。ところでわたしがディナーのためにドレスアップしたのは、頑固だからです。あなたの場合はどうして? 」
この食事で、ポールはローストラムを注文するのですが。
また、『地獄の静かな夜』には、こんな一節も出てきます。
『私が初めて大班のスーツをホランド・アンド・シェリーのウーステッドで仕立てたのは、もう大昔のことですが、寸法はあの頃と一センチも変っていませんね。」
これは香港で一流とされるテイラー「ロア・ハイ・ラム」での会話として。もちろん客の、ブリザードに対する褒め言葉。
「ホランド・アンド・シェリー」は、1834年創業の英国の生地商。アントニー・ホランドがはじめたので、その名前があります。
どなたかホランド・アンド・シェリーのウーステッドで、スーツを仕立てて頂けませんでしょうか。