青森は、北の町ですよね。たしか寺山修司は、青森の出身ではなかったでしょうか。
さらには、太宰 治も。ただし、本名は津島修治なんだそうですが。
青森ならではの美味に、ホヤがあります。ホヤは一度口にすると、忘れられない味となって。あの磯の薫りが。また酒によく合ってくれる佳肴であります。
昭和七年に、青森を通過した旅人に、寺田寅彦。寺田寅彦は札幌で講演があって。そのために東京を発って、北海道に向かったのです。
「九月二十九日。二時半上野発。九時四十三分仙台着。一泊。翌朝七時八分青森行きに乗る。」
寺田寅彦の随筆、『札幌まで』に、そのように書きはじめています。では、青森からはどうするのか。もちろん連絡船で函館に。函館からふたたび列車に乗って、札幌へ。
今と昔。隔世の感あり、ですね。
寺田寅彦の『札幌まで』は、昭和七年『中央公論』十一月号に掲載されたものです。
寺田寅彦は札幌で、五泊しています。
「後方羊蹄山はきれいな雲帽をかぶっていた。十分後には帽が三重のスカーフ雲の笠になっていた。」
ここでの、「スカーフ雲」は、寺田寅彦による命名なんだそうですね。寺田寅彦は科学者だけに雲の観方も念入りなんでしょう。
寺田寅彦は雲以外にも、映画をよく観ています。
「婦人の観客は実にうれしそうに笑っていたようである。こういうアメリカ映画が日本の婦人の思想に及ぼす蓄積的影響は存外ばかにならないであろうという気がした。」
昭和九年『映画評論』十月号に発表した『映画雑観』には、そのように書いています。
これは寺田寅彦が『ある夜の出来事』を観ての感想。
『ある夜の出来事』は、もちろんクラーク・ゲイブルと、クローデット・コルベールの共演。クラーク・ゲイブルは『ある夜の出来事』で、アカデミー賞主演男優賞を受けています。
日本では、昭和九年八月三十日、「帝国劇場」で封切られているのですが。寺田寅彦もまた、「帝国劇場」で観たものと思われますが。
『ある夜の出来事』の中で、ゲイブルがシャツを脱いで、パジャマに着替える場面があります。
この場面に対して、抗議が。アメリカの下着会社から。「シャツの下に下着を着ていないのは困る」」
その後、1950年にゲイブルは『市への鍵』という映画に出演。ここでも、着替える場面が。
ゲイブルは下着会社への詫びのつもりで、わざと下着を着ていたんだそうですね。
このクラーク・ゲイブルだけから推理すると、戦後シャツの下にアンダーウエアを着るようになったのは、アメリカ映画のせいかも知れませんね。
どなたか素肌に直線着たくなるような美事なシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。