ウィーンは、オオストリアの都ですよね。
オオストリアの都であり、音楽の都でもあります。ウィーンはまた珈琲の都とも言えるでしょう。珈琲の都であり、喫茶店の都でも。
ウィーンくらい宮殿のような喫茶店が多い街も少ないのではないでしょうか。ウィーンの美しい喫茶店で、美味しい珈琲を飲んでいると、名曲が生まれ理由も理解できるように思われます。
1787年の十一月。十六歳のベートーヴェンが、モオツアルトに会ったのも、ウィーンにおいてでありました。
1787年のベートーヴェンは旅としてウィーンを訪れたわけですが、その後ウィーンに住むことになるのは、いうまでもないでしょう。ウィーンがベートーヴェンを完成させた。そうも言えるのかも知れませんが。
「彼はがっしりとした肩幅と力士のような骨組みとをそなて、背は低くずんぐりしていた。」
ロマン・ロランはその著『ベートーヴェンの生涯』の中に、そのように書いています。
ベートーヴェンは若い頃、バンカラでもあったらしい。1801年にベートーヴェンに会ったカルル・フェルニーの話によると。「ロビンソン・クルーソーかと思った」とのこと。なんでもその時のベートーヴェンは、山羊の毛のチョッキとズボンとを着ていたという。
ロマン・ロランが、『ベートーヴェンの生涯』を発表したのは、1903年の時。友人が
『カイエ』という音楽雑誌を出すので、それに合わせるために。ところが、この
『ベートーヴェンの生涯』が拍手喝采となって、ロマン・ロランの筆名が高くなったという。
ロマン・ロランは十八歳の時、ベートーヴェンに傾いて、音楽会通い。おかげで入試試験に落ちたりもしているのですが。
ロマン・ロランが傑作『魅せられたる魂』を発表したのが、1931年。その中に。
「………腹立たしい身ぶりで、彼女は肩から父のウープランドをかなぐりすてた。」
「彼女」とは、もちろん「アンネット」のことであります。
ウプランド h o uppel and e は古風な、広袖の外套のこと。ウプランドは十四世紀の英國で流行になったコート。英國からフランスにも伝えられたものと考えられています。
古代英語の、「ホップ パーダ」 h op pâd a からフランス語の「ウプランド」が生まれたとのことです。
どなたか袖の広いウプランドを仕立てて頂けませんでしょうか。