アーミンは、キリスト教での祈りの言葉よね。
日本語としてのアーメンは慶長五年頃から使われているんだとか。慶長五年は、1600年のことですから、古いですね。ただし日本語では「あめん」として口に出していたらしいのですが。
アーメン āmēn はもともとヘブライ語で、「そうでありますように」の意味であったという。
いろいろと祈りの言葉を掲げて、その祈りのおしまいに、「そうでありますように」と締めくくったものでしょう。
今、試みに、『広辞苑』を開いてみますと。たしかに詳しく説明がなされています。
『広辞苑』の編纂が、新村 出の偉業であったのは、言うまでもないでしょう。
新村 出は、明治二十九年九月。当時の「東京帝国大学」に入っています。その時代には、
「博言学科」と言ったんだそうですが。これは後に「言語学科」に改められているという。
つまり博言学とは「言語学」のことであったのでしょう。
大学一年で学ぶ授業は。博言学。国語学。ラテン語。ギリシア語。ドイツ語。フランス語。
人類学。哲学概論。などであったそうです。
新村 出は優秀な生徒で、成績も良く。少なくともフランス語は楽に読めたらしい。
後の時代、新村 出は京都大学でギリシア語の教壇にも立ってという。
新村 出が使っていたギリシア語辞典は、ぼろぼろになっていたとも伝えられています。
その新村 出は、キリスト教についてどのように考えていたのでしょうか。
新村 出はキリスト教についても多くの文章を発表しています。ただし、明治大正のことですから、「吉利支丹」だとか「耶蘇教」の表記になってはいるのですが。それはともかく
新村 出が学問上、キリスト教に関心を持っていたのは、間違いないと思われます。
「大少二重の十字章の下には IHS とて耶蘇会の記号あり。その下に「るしや、慶長十四年五月三日」と刻す。」
大正七年に新村 出が発表した『吉利支丹の遺物、信徒の墓と南蛮寺遺鐘』と題する論文にそのように書いています。
大正のはじめになって。京都の「成願寺」で、不思議な墓が発見されたことを述べた文章なのです。
新村 出の論文によりますと。慶長十九年に、「耶蘇教寺院」の焼き払いということがあった。それで誰かが密かに、墓を移したのではないか。そうでなくては仏教の寺にキリスト教信者の墓があるのは奇妙ではないか、という内容になっています。
新村 出は、大正十二年、京都で講演を行っています。十一月二十八日に。この講演内容は、今、『語原雑話』として著書に収められています。この中に。
「ヨーロッパに於きましても黒貂は非常によく使はれ、十四五世紀の時から今日まで数百年間用ゐられて居ります。」
黒貂の毛皮が、今も王室での戴冠式に不可欠となっているのは、ご存じの通りであります。
黒貂は、英語では「アーミン」 er mine 。1250年頃からの英語であるとのことです。
アーミンは冬になると、白い毛に変わる。でも、尻尾の先だけは黒に残る。
儀式用のガウンなどを見ると、全体に黒い斑点があります。あれは、尻尾の斑点なのです。
つまり、斑点の数だけのアーミンが使われていることでもあるのですが。