木曜と木綿

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木曜は、サーズデイのことでよね。ちょうど一週間の真ん中。木曜日。
たとえば、ニュウギニアとオオストラリアの間に、「木曜島」があります。「サーズデイ・アイランド」。
木曜島はその昔、真珠の宝庫とされた島でもあります。1789年に、「バウンティ号」の、ブライ船長が木曜日に発見したしまなので、その名前があるんだとか。そのために、近くには、「水曜島」や、「金曜島」もあるんだそうですね。
水曜でも木曜でも金曜でも。日本人はいったいいつ頃から、「曜日意識」を持っていたのでしょうか。江戸時代に「日曜日」という感覚、あったのかどうか。

「馬車に乗り、十二時グランドホテルに投じ、四十三号の室を借る。」

成島柳北著『航西日乗』には、そのように出ています。もちろん巴里に着いたばかりの記録。成島柳北の部屋が、43号室だったことが窺えるでしょう。
この日記は、明治五年十月二十八日、木曜、晴、と書いてあります。明治五年の、成島柳北の頭には「木曜」の感覚があったものと思われます。
いや、『航西日乗』の記録すべてに、曜日の記載があります。明治のはじめの選良は、曜日を意識するようになっていたのでしょうね。
木曜で有名なものに、「木曜會」があります。いうまでもなく、夏目漱石の自宅での集まり。この「木曜會」のひとりだったのが、安倍能成がいます。安倍能成は、最後となった「木曜會」について書いています。それは、大正五年十一月十六日の、木曜日だったという。この日も、夜の十時には皆帰る。そのあと、二、三人だけが残る。そのひとりが、安倍能成。そこで、夏目漱石はどんなことを言ったのか。

則天去私。

「私のことは忘れて、天の摂理に従いなさい」という意味でしょうか。「天はちゃんと観ている。自我にこだわるな」。そうも解せるでしょう。「自分自分と言うなかれ」と。
漱石の長い歴史の中で、最後にたどり着いた真理が、「則天去私」だったものと思われます。
安倍能成が、はじめ学校の先生になったのが、大正元年、二十九歳も時。その時の服装は、どうであったのか。

「私は別に洋服も作らず、木綿袴をはいてその式に出た。」

安倍能成著『三つの心得』にそのように書いています。大正元年は、西暦の1912年のことですから、百年以上も前の話。今なら、チノ・パンツにも近いものでしょうか。
木綿は不思議な生地で、洗うことによって再生する。なんだか不死鳥にも似ています。チノ・パンツを例にとっても。洗ったばかりのチノ・パンツはなんと光輝いて見えることか。チノ・パンツならではの美事さがあります。
洗ってすぐのチノ・パンツで、「木曜會」の資料を探しに行くとしましょうか。

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