ハイキングと半ズボン

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ハイキングは、山歩きのことですよね。登山よりも、もっと軽いウォーキングなんでしょう。
h ik ing と書いて、「ハイキング」。1901年頃からの英語なんだとか。「ハイク」h ik e は、「てくてく歩く」の意味だったそうです。
ハイキングが出てくる小説に、『雪國』があります。昭和十二年に、川端康成が完成させた物語。『雪國』については傑作という外、説明不要でしょう。

「…………ハイキングの女學生達の若々しく騒ぐ聲が聞えてゐるうちに眠らうと思つて、島村は早くから寝た。」

ここでの「島村」が、川端康成の分身であるのは、いうまでもないでしょう。同じ泊まり客の中に、ハイキングにきた女学生がいる。そのような設定なのでしょう。
川端康成が『雪國』を発表しはじめたのは、昭和十年のこと。
そして、川端康成がはじめて宿に泊まったのは、昭和九年六月十三日と、記録されています。越後湯沢の「高半旅館」に。
ところが、なんです。日本で、「ハイキング」が一般的に用いられ出したのは、昭和九年頃のこと。

「………今日の流行の言葉で言へば、『ハイキング』に当る。」

岡倉由三郎は、『旅情』と題する随筆に、そのように書いています。これは昭和九年の雑誌、『旅』十一月号に発表されているものです。
川端康成は『雪國』の中で、「ハイキング」とさらりと使っています。が、それは当時の「流行語」であったらしいのですね。

川端康成の『雪國』は、「縮」の勉強にもなります。

「白縮は雪へぢかにのばして晒す。」

このように書きはじめて、延々と小千谷縮の仕上げ方についての名文を綴っているのです。
また、川端康成はこうも書いております。

「………暖國の人に見せたいと、昔の人も書いてゐる。」

真冬の雪の上に置いた、白縮の様子を。川端康成のいう「昔の人」とは、鈴木牧之。越後のひと、江戸期のひと。『北越雪譜』の著者。小千谷縮の仲買人でもあった人物。

ハイキングが出てくる小説に、『朝の草』があります。昭和十三年に、武田麟太郎が発表した物語。

父親のハイキングと云ふのは、井ノ頭公園行のことだ。

また、武田麟太郎著『朝の草』には、こんな描写も出てきます。

「………ハイキング用のカーキ色の半ズボンに、水筒を肩からかけて……………。」

たしかに、ハイキングに半ズボンは、持って来いのものでしょう。
それは「ショート・パンツ」であり、「ショーツ」でもあります。同じ半ズボンでも、短いものほど、スポーティーになり、長いものほど優雅になるわけです。バーミューダ・ショーツなどは、半ズボンの中ではドレッシーといえるでしょう。
どなたか麻の半ズボンを仕立てて頂けませんでしょうか。

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